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2006年7月2日 礼拝メッセージ
感謝しに戻ってきた人
(新約聖書 ルカによる福音書 17章11〜37節)

『ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」』(新約聖書 ルカによる福音書 17章11〜19節)


イエス様は今までにもいやしのわざを何度もおこなってきましたが、そのたびによく「誰にも言わないように」と注意していました。しかし今回はいやされたことを祭司に見せるよう言いました。それはなぜかというと、イエス様を信じていない祭司や律法学者たちが、いやしのわざを見て信じることができるようにという配慮からです。


『彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」』(新約聖書 ヨハネによる福音書 6章28,29節)


神様のためにすることで、一番大事なことは「信じること」です。イエス様は別の箇所で「信じることができないならわざを見て信じなさい」とまで言われました。信じることなしに何も始まりません。イエス様は私たちが信じることができるように配慮してくださっています。


ところで、いやされた10人の病人のうち、一人は神様に感謝しに戻ってきましたが、残りの9人は神様に感謝しに来ませんでした。ここに2つの信仰のあり方が現れています。一つは感謝する信仰、もう一つは感謝しない信仰です。感謝しない信仰とは、別の言い方をするなら、神様を自分の目的のために利用する信仰です。


律法学者たちをはじめユダヤ人たちは、神様を自分の正しさを示すために利用していました。彼らは人から良く思われること、外側が整うことを大切にしていました。神様の定めた律法を守っているから自分たちは立派であると自負していました。神様を利用していたユダヤ人たちに対し、神様に感謝する信仰を持っていたのはユダヤ人が異邦人として敵対視していたサマリヤ人でした。


イエス様は別の箇所で、自ら定めた律法を解釈されました。それは、腹を立てたり、人をののしったりしたら、人を殺したのと同じことである、つまり、心に思ったら実行したのと同じだということです。人は実行さえしなければ罪に問われない、正しい、と思いますが、神様の律法に当てはめたら、言い逃れをできる人など一人もいません。つまり、律法学者たちは神様の前には決して正しいと言えないのです。


神様の律法の前に、すべての人は罪人です。「罪から来る報酬は死」とあるとおり、誰も死から逃れることはできません。世の中の物差しで見れば、私たちは罪人ではないかもしれません。しかし、神様の物差しで見たら、罪人です。それも数え切れないほどの罪を犯した者です。それらの罪を見たら、「助けてください」という言葉しか出てこないのではないでしょうか。私たちは海でおぼれているようなもので、助かる方法はただ一つ、天から降りてきたイエス・キリストというロープにつかまることです。


「愛は律法を全うする」と聖書にあります。イエス様にとって律法は遵守されるべきものでした。しかし、その場合、すべての人は罰を逃れられません。ですから、すべての人が受けなければならない罰をご自分で負ったのです。このことを知るとき、自然に感謝が出てきます。感謝する、しないとは小さいことのようで大きな違いです。


イエス様は戻ってきた人に対して、「あなたの信仰があなたを直した」と言いました。病気をいやされたのは10人の人たちでした。しかし、感謝しに戻ってきた人だけに起こったことがあります。それは心のいやしです。心が神様に向くようになったのです。


私たちは、神様の方に向こうとするのに、落ち込んでしまったりと、神様に向かえなくなってしまいます。それは私たちの潜在意識であり、長年の考え方の習慣によるものです。イエス様はそれを変えようとしています。いつでも感謝できるように導こうとしているのです。


『さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」』(新約聖書 ルカによる福音書 17章20,21節)


イエス様を信じるなら、あなたはもう神の国にいるのだとイエス様は言われます。もう神の国に向かっているのだから、心配する必要はないと言われます。


イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。


『しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
…(中略)…弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」『(新約聖書 ルカによる福音書 17章22〜37節)



目に見える神の国はどのように来るのかをイエス様は説明しています。まずイエス様の十字架があること、そしてその日は思いがけずに突然来ること・・・。しかし、イエス様が言いたかったことはこの37節に集約されています。死体とは神様を信じない人のことで、はげたかとは悪魔を指します。信じない人に悪魔はねらいをつけている、つまり、神様を信じていれば、神の国はもうあなたに来ているから大丈夫だというメッセージなのです。



神木イエス・キリスト教会


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