『イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。』(新約聖書 ルカによる福音書
17章1,2節)
この話はイエス様の行動につまずいた律法学者たちに対し、イエス様が話を始めたところから始まっています。この章からイエス様は律法学者たちに話すのをやめ、今度は弟子たちに話し始めました。
テーマはつまずきを起こすものは何かということです。つまずいたのは律法学者たちですが、彼らは何につまずいたのでしょうか。それは彼らが人を行いによって○か×か判断したからです。これが律法主義であり、つまずきを引き起こすものです。
しかし、キリスト教の中心は「人は、行いではなく信仰によって義と認められ、救われる」という教えであり、律法主義と正反対です。私たちは自分のつまずきの原因は誰かがこんな行動をとったからだと、人のせいだと思いがちですが、そうではなく、神様の正しい物差し(人の行いではなく信仰を見る)とは違う間違った物差し(人を行いで判断する)を使っているためなのです。
『気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」』(新約聖書 ルカによる福音書
17章3,4節)
3節でイエス様は、誰かがあなたに悪を行っても、悔い改めるなら何度でもゆるしなさいと言われました。私たちは軽いことならゆるすことができるでしょう。しかし、事の程度によっては、また度重なることとなると、ゆるせないのではないでしょうか。なぜゆるせないのか、それは私たちが人を行いで見ているからです。
では、なぜイエス様は「ゆるしなさい」と言われるのでしょうか。それは、人の価値は行いではないからです。私たちが神様にゆるされたのも、良い行いをしたからではなく、「ごめんなさい」と神様に悔い改めたからではなかったでしょうか。
そもそも人が○×をつけるようになったのは、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べたところから始まっています。神様はその実だけは食べてはいけない、食べたら必ず死ぬと言われました。しかし人はその実を食べて、善悪を自分で判断できるようになりました。その判断は決して正しいわけではありませんが、自分では正しく判断していると思い込み、その結果、神様の判断を聞かないで生きるようになったのです。
子供の判断は間違うことが多いものです。ですから、親は子供に言うことを聞くように言い聞かせます。間違った判断は危険を招くことがあるからです。私たちは自分を正しい、賢いと思って判断し、行動していますが、神様の目に本当にそれは正しいのでしょうか。確かに行いには良い悪いの基準があり、聖書に書かれています。しかし、価値の判断基準はないのです。価値を判断することは、神様にだけできることであり、人がしてはいけないことなのです。
『使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。』(新約聖書 ルカによる福音書
17章5,6節)
5節で弟子たちがこう言ったのは、自分にはゆるすことができないと思い、ゆるせないのは信仰が足りないからだと思ったからです。それに対するイエス様の言葉はからし種のような「小さい」信仰があればいいという意味ではありません。からし種は生きているから成長します。そのように、信仰が生きているなら、今できないことがあってもいずれ成長するのだから、心配する必要はないという意味です。しかし、弟子たちは今の時点でできないからと自分に×をつけていました。それは行いで自分を見ていたからです。
『ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」』(新約聖書 ルカによる福音書
17章7〜10節)
神様に仕える者にとって、耕作は伝道、羊を飼うことは牧会、つまり神様への奉仕を指します。世の中において行いの目的は報酬です。しかし、神の国において奉仕の目的は報酬ではありません。ですから、どんなに良い奉仕をしても、神様は私たちに感謝しません。私たちは皆、神様から生きる目的をいただいており、そのために必要な賜物が神様から与えられているからです。それらは誇るためのものではなく、神様の栄光のために用いていくためのものです。
私たちはすでに神様から価値ある者とされているのですから、なすべきことをやったら、認めてくれと求めるのではなく、むしろ神様をお迎えし、礼拝(感謝)しなさいと言われます。これだけのことをやったから認めてほしいという行いの生き方は、苦しみや争いを生むだけです。「なすべきことをやったにすぎない」と言い、神様に感謝するのなら、物事も人との関係もスムーズにいくでしょう。 |