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2006年6月18日 礼拝メッセージ
ラザロと金持ち
(新約聖書 ルカによる福音書 16章19〜31節)

『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』

アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』』(新約聖書 ルカによる福音書 16章19〜31節)



ここに「お金持ち」と「貧乏人」が登場しますが、イエス様は両者に意味を含んで語っています。お金持ちは遊び暮らしていたとありますが、それは言い換えれば、自分と向き合わずに生きていたということです。自分がどんな存在か、冷静に考えれば、いずれ死ぬ運命にある惨めで哀れな存在だと分かります。しかし、その事実に向き合うことなく、ごまかしながら生きている、そのような人を指しています。


一方、貧乏人ラザロは、貧乏なだけではなく病気で、いやでも自分自身と向き合わざるを得ない状況にあります。イエス様は別の箇所で、「心の貧しいものは幸いです」「悲しむ者は幸いです」 と言われましたが、イエス様にとって人の幸いとは、自分の惨めさを知り、神様にあわれみを求めることなのです。なぜなら、人を苦しみから救うことができるのは、見えるものではなく、人を造った神様だからです。


余命あとわずかと宣告された人をかわいそうだと私たちは言うかもしれません。しかし、私たちはみな死ぬのです。みなかわいそうな存在です。それは海で溺れているのと似ています。溺れている人はあわてて浮かんでいるものにしがみつきます。しかし、それもいずれ沈んでいくので、また別のものにしがみつきます。それを繰り返していると、自分が溺れていることに気がつきません。本当に溺れていることを知っている人は、天から下りてくるロープに必死にしがみつくのです。そのロープは浮かんでいるものよりもみすぼらしいかもしれません。しかし、本当に助けてほしいと思う人はこのロープが助かる道だと分かるのです。


人は見えるもので幸せかどうか判断します。これが肉の物差しです。しかし、神様は全く違う考え方をします。神様の物差しは「信仰」です。「あなたを造った神様がいることを信じられるかどうか」この1点をどう認識するかによって、その人の人生が大きく変わります。人は自然にできたのか、神様によって造られたのか。ここにものがあるということは、作った人がいるという証拠になります。宇宙にあるものはすべていくつかの元素の組み合わせですから、人が作ったものも、生き物も同じ物質から成り立っています。単純な物は人が作ったと容易に認められるのに、なぜ、はるかに複雑な構造を持った生き物が自然にできたと言えるのでしょうか。年月が経てば、複雑な物が自然にできるのでしょうか。ここに論理矛盾があります。


宗教は非常識なものがあったり、洗脳して考えないようにするということが行われたりしていますが、キリスト教は常識的に自然に考えることに戻るものです。私たちは気がつかないうちにあまりにもいろいろな迷信や観念に惑わされています。それら肉の物差しが私たちを苦しめていることをイエス様はご存じです。イエス・キリストが救い主であることを信じるロープを手にすること、それが苦しみからの本当の解決になります。


ラザロは天で慰めを受けました。神様の仕事は私たちを慰めることです。しかし、私たちが心のつらさをお酒やギャンブルや、見えるものによって紛らわすとき、神様は何もしません。神様の慰めはもっと深い平安です。私たちは神様に求めればそれを手にすることができるのです。


この箇所に関連して、イエス様を信じずに死んだ人にはもう救いのチャンスがないのかということが以前から論議になっていますが、このことに関しても、私たちは神様が言われることをただアーメンと受け取ることしかできません。聖書の他の箇所にも死後のことが少し触れられていますが、イエス様の言われることが優先されます。それによると、人の最大の罪は造り主を認めないことであり、造り主を認めなければ天国に入ることはできません。


また、金持ちがアブラハムに神様を信じていない家族を救ってほしいと懇願していますが、これは私たちの先に死んでいった人たちの気持ちを表しています。私たちの家族や周りの人たちで、先に死んでいった人たちは、何を一番望んでいるでしょうか。それは、私たちが神を信じ救われることです。そして、それが亡くなった人たちへの一番の供養なのです。


私たちは現実と向き合う必要があります。私たちは必ず死ぬのです。また、今生きているのは偶然ではなく、理由があります。造り主を認め、自分が生かされている理由を知り、平安の中でその目的のために生きていきましょう。



神木イエス・キリスト教会


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