『さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。』(新約聖書 ルカによる福音書 16章14,15節)
お金を愛するのは、人から良く思われたいという思いの表れです。人から良く思われるかどうか、それが人にとっての価値基準であり、お金はそれを表すシンボルなのです。人は潜在的に「自分はダメだ」と思い、それを何とかしようとして行動しています。それがお金を愛することにつながっていると言えます。
このように、人が人を見るときは常に、経済力や容姿といった外側を見て価値を判断しま
す。これを肉の物差しといいます。それに対して神様が人を見るときに用いる物差しはどんなものでしょうか。
神様は外側ではなく内側の心をごらんになります。私たちの心が神様を信じるかどうかに注目しておられます。しかし、それは価値を判断するためではありません。神様は私たちに何か能力あるから興味があるのではなく、ご自分が造ったゆえに興味があり、信仰の成長を楽しんでおられるのです。人は、信仰の成長までも価値に置き換えようとして、信仰が大きくなければダメだと思いますが、神様はそのようなことは気に留めません。生きていれば必ず成長するからです。そして成長させるのは神様ご自身だからです。
私たちの価値とは何によってはかることができるのでしょうか。私たちはものの価値をどれだけ犠牲が払えるかによって判断します。価値があると思ったものには高い金額を支払っても購入するでしょう。ではもっとも大きい犠牲とは何でしょうか。それはいのちです。神様はもっとも大きな犠牲を私たちのために支払ってくださいました。イエス様は私たちの代わりに十字架にかかって死に、その流された血によって私たちは赦されました。なぜ神様はこれほどまでの犠牲を払われたのでしょうか。それは、私たちが価値ある者だからです。
私たちは何かができるからとか、何かを持っているからではなく、神様が造られたから価値ある者なのです。そのことを忘れてしまったり、信じられないときに人は不安になります。不安になったときは、神様が私たちに絶対的な価値を与えておられることを信じず、人の肉の物差しを信じたからに他なりません。つまり、神様の言葉を信じられないから不安になるのです。
『律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。』(新約聖書 ルカによる福音書
16章16〜18節)
律法と預言者は旧約聖書のことです。旧約の時代は、律法学者たちが神様の命令である律法を解釈し、やるべきこととやってはいけないことを細かく定め、それを守ることで救われると信じられてきました。しかし、旧約聖書で預言されていたことはイエス・キリストが来られたことで成就し完了したので、律法を守ることによって救われるという考え方ももう終わったとイエス様は言っているのです。人が救われるのは行いによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるのです。
しかし、だからといって律法が不必要になったのではありません。律法には救う力はなくても、間違った方向へ行かないための戒めとして必要なのです。律法があるからこそ罪を自覚し、悔い改めて神様の恵みを受けることができるのです。
律法の中からここで離婚と結婚について触れられていますが、夫婦間の問題は、互いに相手のせいだと思うものですが、この場合も自分の物差しのせいです。自分の物差しゆえに苦しいのに、相手を取り替えればよいと考えて離婚します。しかし、相手を変えたところで自分の物差しが変わらなければ問題は解決しません。ですから、結婚している人は、問題の原因が相手ではなく自分の物差しにあることを認め、神様に変えていただくことを求め、相手のことを大切にしていきましょう。
律法は、救いに対しては何の意味もありませんが、私たちが間違った方向へ行かないための矯正のために、悔い改めの恵みにあずかるために意味あるものであり、私たちにとって必要なものであることを忘れてはなりません。 |