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2006年5月21日 礼拝メッセージ
放蕩息子
(新約聖書 ルカによる福音書 15章11〜32節より)

私たちが物事を判断するとき、必ず使っている物差しがあります。その物差しがもし間違っていれば、間違った結論を導き出すことは明白です。今回も、私たちが持つ間違った物差しと、神様の正しい物差しについて、イエス様の例え話を通して見ていきましょう。


『「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。』(新約聖書 ルカによる福音書 15:11〜12)


息子から財産を分けてくれと言われた父親は、何も言わずに分けてやりました。ここでの父親は神様を指し、息子は私たち人間を指すわけですが、神様は人間に自由意志を与えていることが分かります。私たちは自分ですべてのことを選択しています。その選択に対し、神様は何も言わず私たちに任せています。つまり私たちには選択した責任があるのです。


『それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。』(新約聖書 ルカによる福音書 15:13〜16)


人はどうしたら幸せになるかと考えます。そして、たいていはお金があれば幸せと思い、お金を得ることに励みます。そしてお金をどれだけ持っているかで人の価値を判断し、自分もお金や見えるものを手に入れることで評価され、幸せになることを目指します。人は、そういった価値判断を繰り返して生きているのです。


間違った物差しによって苦しみ、憎しみや不安が生まれます。「お金を得ることが幸せにつながる」という物差しによって、お金を得て一時的に幸せを感じても、すぐに不安や恐れが来て永続的な幸せは得られません。「〜でなければならない」という物差しも同様です。しかし物差しが変われば判断も変わります。それまで憎んでいた相手も、物差しが変わることで愛するようになり、心配していたことも、物差しが変われば心配せずに済むようになります。つまり私たちは憎まなくてもよいのに憎み、心配しなくてもよいのに心配しているのです。


『しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』』(新約聖書 ルカによる福音書 15:17〜19)


お金で幸せになるのではなく、むしろ自分は幸せでなかったと、息子は悟ります。大切だと思っていたことは実はいざというとき役に立たず、今まで見捨てていたもの、当たり前のように受け取っていたものこそが本当に大切なものだったのです。


彼は自分の罪を思い、罪をゆるしてもらうには、何か償いをしなければならないと思いました。世の中の宗教はみな、良い行ないによって救われると説きます。それは人にとって納得いくものだからです。しかし、神様は良い行ないによって私たちを救うのではないことが、次の記述によって分かります。


『こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。』(新約聖書 ルカによる福音書 15:20〜24)


父親は息子の姿を見るなり走り寄り、息子が詫びる言葉など構わず、宴会を催します。神様にとって、私たちが自分で償い、良い行ないをすることは、私たちの価値とは全く関係ありません。神様にとってうれしいのは、私たちが方向を変えて神様のもとに近づいてくることです。神様はその信仰を見て私たちを救われるのです。


私たちの価値が行ないとは全く関係ないとなると、私たちの価値はどのようなものなのでしょうか。それは、私たちの存在理由をどう考えるかによって変わってきます。人間が神様によって造られたことを信じるなら、私たちの価値は神様に依存します。そして、神様は私たち一人一人を優劣なく、高価で尊いと見ておられます。一方、人間は進化して偶然に存在していると考えるなら、自分の価値は人との比較の中で自分で見出さなくてはなりません。


余談ですが、人間が進化して存在するようになったという考えがいかに非科学的であるかは、簡単な話によって分かります。ここにテレビが存在していれば、誰かがこれを作ったということが分かります。それなのにテレビよりもはるかに複雑な構造を持った人間が存在していることを、偶然と呼ぶことができるでしょうか。しかも遺伝子という言語で書かれたプログラムによって私たちの体は成り立っているのです。コンピュータのプログラムは偶然にはできません。誰かが書いたからあるのです。それは遺伝子プログラムも同様です。神様が人間を造られたと考える方が、進化論よりもはるかに科学的であると言えないでしょうか。


ところで、父親は祝宴を催しましたが、これは息子のためにしたのではありません。自分の喜びのためです。これは神様の喜びは何かを示しています。神様にとっての喜びは、人が悔い改めて神様のもとに近づいてくることです。


『ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」』(新約聖書 ルカによる福音書 15:25〜32)


兄弟は自分が親にどれだけ愛されているかを見えるもので比較し合うものです。兄もまた見えるもので比較し、自分が弟に比べて愛されていないと判断し怒りました。彼も行ないで物を見ていることが分かります。しかし、ここで父が言っているように、神様は私たちに語っておられます。「わたしはいつもおまえといっしょにいる。わたしのものは、全部おまえのものだ。」見かけのものではなく、神様がいつも一緒にいてくださること、それが一番の祝福であることを忘れてはなりません。



神木イエス・キリスト教会


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