『さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らの方に向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。
また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。』(新約聖書
ルカによる福音書 14:25〜34)
大勢の群衆がイエス様や弟子たちにあこがれ、弟子になりたがりました。そんな彼らに対し、イエス様はどんな人が弟子にふさわしいかを語り始めます。これには裏のメッセージがあり、そちらのほうが重要なのですが、それは後で述べます。
弟子の条件として、イエス様はここで次の3つを挙げました。
1.神を第一にする
自分の家族、自分の命を「憎む」という表現になっていますが、これは神様とそれ以外の存在を比較しているためです。つまり、神様よりも自分や家族を愛する者は、弟子としてふさわしくないと言っているのです。
2.死を覚悟する
十字架は処刑、死を意味します。イエス・キリストを信じているがゆえに受ける迫害に耐えられない者はふさわしくないと言っています。
3.全財産を捨てる
富のあるところに心があります。建物を建てる備えと敵と戦う備えについてたとえがありますが、これは弟子になるにあたって感情ではなく客観的な判断が必要だということです。
イエス様がこのように弟子の条件を挙げたのは、群衆に弟子になる覚悟を促すためではなく、むしろあきらめさせるためでした。冷静に考えれば、これらの条件を完全に満たすことなど誰にもできません。イエス様はなぜこのようなことを語ったのか、また何が言いたかったのかを見ていきましょう。
人々の「弟子になりたい」という考えには、いくつか誤りがありました。まず、イエス様は群衆が弟子になりたがった動機を問題にされました。彼らが弟子になりたかったのは「特別になりたい」「尊敬されたい」「弟子になったら幸せになれる」という考えから、弟子になれば神様に特別に愛され、尊敬を受け、幸せになれると思い、そういった動機から弟子になることを求めました。しかしもちろん、それは間違っています。弟子になったからといって特別になるわけではありません。神様の目には誰もが同じ価値を持っているからです。その価値に大小はありません。
また、よく人は「〜のようであったら(幸せになれる)」と思いますが、幸せは誰かのようになることではなく、自分に与えられた役割を見いだし、それを行っていくことに他なりません。実は、イエス様が最も言いたかったのはそこにあります。人々が考える弟子は、いつもイエス様の近くにいる、いわゆる12弟子のような人たちでしたが、神様にとっての弟子とは、神様がその人に与えた役割、賜物を見いだし、忠実に行う人です。つまり、誰もが弟子になることができるのであり、見えるところの弟子ではなく、本物の弟子になれとイエス様は言いたかったのです。
イエス様が挙げた3つの条件は、12弟子たちも誰一人できませんでした。ペテロは全財産を捨てることができても、命を捨てることができず、イエス様を裏切りました。また、パウロは手紙の中で、どうしても自分の中に神様の御心に反する自分がいる、つまり神様を第一にできないことを告白しています。その中で彼は、律法(神様の命令)は人を罪の下に閉じこめ、神様の恵みに気づかせるためのものだったと気づきます。つまり神の国は何かできることで認められるとか愛されるとか、優劣を判断するとか、そういう世界ではないのです。
神様が私たちに望んでいるのは、本物の弟子つまり、自分に与えられた賜物を知り、自分の役割を受け入れ、賜物を忠実に用い、キリストの体の一部として役割を担うことです。その時、感謝が生まれます。それが本当の幸せなのです。人生はクロスステッチのようだと言った人がいます。表はきれいな絵だけど裏から見るとわけがわかりません。私たちは自分の人生を裏から見て訳が分からずつぶやいてしまいますが、神様にはちゃんと計画があって、絵を作り上げているのです。
キリストの体もまたそのように一人一人の糸によって描かれた刺繍の絵のようであり、天に行ったときに自分がその一部をどのように担っていたのかが明らかになります。そこには大小も優劣もなく、ただ異なる役割があったことがよく分かるでしょう。神様は自分にどんな役割を与えておられるのか、どんな賜物を与えておられるのか、それを見出したなら、賜物をどのように用いていけるか、そのことに心を向けて歩んでいきましょう。 |