『ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」彼らは答えることができなかった。』(新約聖書
ルカによる福音書 14:1〜6)
パリサイ人達は律法(神様のことばを自分たちで解釈したきまり)によって人を○か×で判断し、「安息日に仕事(病気を治すことも含む)をしてはいけない」というルールに反しているイエス様を訴えようとしていました。私たちもまた、自分の中に何かのルールを持っていて、それによって人や物事の善し悪しを判断しているものです。それに対し、イエス様は別のものの見方を示されました。それは愛による見方です。それはどういうものでしょうか。
1.ルールを人の価値を見極める物差しにしてはいけない
パリサイ人達は律法を守れるか守れないかで人を○×で判断していました。しかし、聖書によると律法は、人を判断するためのものではなく、人が自らの罪に気づくためのものです。さらに、人の価値は行ないによって決まるのではなく、造られた方に依存するのです。つまり、すべての人は神様が造られたゆえに、価値ある存在なのです。
2.愛よりも優先される律法はない
律法の役割は私たちを支配することではなく、罪に気づくための道具に過ぎません。律法よりも重要なものは、愛であり、いのちです。愛については後でさらに詳しく説明します。
『招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください。』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」』(新約聖書
ルカによる福音書 14:7〜11)
人は「自分は特別でありたい」と思っています。人生においては、大きいことから小さいことまですべて選択の連続ですが、何かを選択するために必要なのが「理由」です。神様を抜きにした人生において、何かを選択するための「理由」となるのは、「人から良く思われること」です。この箇所で人々が上座を選ぶのも、人から良く思われたいという気持ちの表れです。しかし、人から良く思われることを目的にしていると、行き詰まります。
私たちの人生の中に神様がおられるなら、その理由は全く違ってきます。神様は私たち一人一人をキリストの体の一部として目的を持って造られました。神様はその目的のために一人一人に賜物を与えておられます。その賜物を活かすことが、私たちの生きる理由です。「人からどう思われるか」ではなく、「どうしたら賜物を活かすことができるか」それが、私たちの関心事となります。
人の目から見てどんなに良い行ないをしても、神様の前にはすべての人は同じです。神様の関心事は、私たちが良いことをしたかどうかではなく、ご自分が与えた賜物を用いて生きているかどうかなのです。
『また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」』(新約聖書
ルカによる福音書 14:12〜14)
愛とはどういうものかという話に戻ります。ここでイエス様が語っていることを通して分かるのは、「愛は見返りを期待しない」ということです。人に腹を立てたり、怒ったりするのは、見返りを期待している証拠です。相手が自分の思うように行動しないと、自分はこれだけのことをしてあげたのに、なぜ?と腹を立てるのです。これはその人を愛しているのではなく、都合良く利用している、言い換えれば支配しているのです。
人間関係の問題は、相手の問題ではなく、自分の問題です。自分が相手からの見返りを期待しなければ、相手がどんな態度であろうと、腹を立てることはないからです。見返りを求めず、素直に人を見れば、関係はスムーズになります。
『イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言った。するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」』(新約聖書 ルカによる福音書 14;15〜24)
神の国の食事、これは救いを表します。食事の用意ができたと、救い主イエス・キリストがこの地上に来られました。しかし、救い主の約束を待ち望んでいたはずのユダヤ人たちは、自分たちのルールにとらわれ、イエス様を歓迎するどころか、拒否しました。そこで神様は、貧しい人たちを連れてきなさいと言われました。貧しい人とは、心砕かれた人、今困っている人を指します。その人たちは神のことばを求め、聞こうとするからです。私たちはすばらしい福音をいただいています。神様は一人でも多くの人がこの恵みを知り、受けることができるように望んでおられます。ですから、あきらめずに周りの人たちに語り続けていきましょう。 |