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2006年4月9日 礼拝メッセージ
物差し
(新約聖書 ルカによる福音書 13章10〜21節より)

『イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。』(新約聖書 ルカによる福音書 13章10〜17節)


安息日に女をいやしたイエス様に対し、会堂管理者は憤りました。それは、会堂管理者が律法という物差しでイエス様を判断したからでした。律法では安息日には働いてはいけないとあります。それをイエス様に当てはめ、「いやし」という仕事をした=律法を破った=神様に従っていない、という判断でイエス様を悪人としたのです。


人をいやすことは裁かれるようなことではなく、むしろ良いことです。しかし、会堂管理者が判断したように、ある見方をすれば、それは悪いことになります。私たちはみな、何かの物差しを使って人を判断しています。ですから、同じことを行っても物差しが違えば、その人は善人にも悪人にもなり得るのです。イエス様はここで、私たちが物事を判断するとき、どのような物差しを使うかが問題であることを示唆しています。


私たちが誰かを憎むとき、人を嫌だと思うとき、それはある物差しを使って見ているからです。それは、「行ない」という物差しです。世の中の基準でこれができればよい、できなければダメと判断します。それは、神様の物差しとは全く違うものです。


聖書がいう神様の物差しは「愛」です。イエス様は律法を守るなら、この2つのことを守るように言われました。


『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」』(新約聖書 マルコによる福音書 12章30,31節)


ここで神様が言う愛は、見返りを求めない愛です。しかし、人は見返りを期待します。愛しているのになぜ分かってくれない?〜〜してくれない?と。そして、期待通りのものが得られないと腹を立て、怒り、憎しみがわくのです。では、神様の愛の物差しはどういうものなのかをさらに見ていきましょう。


『そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」』(新約聖書 ルカによる福音書 13章18〜21節)


ここでイエス様は神の国をからし種、パン種にたとえていますが、それはつまり、神の国は成長し続けるということです。私たちは成長しているのです。世の中においては、何でもいつかは成長が止まり、衰退していきます。私たちの体も、文明も同様です。しかし、神様の物差しはそういった見えるところで判断をしません。なぜなら、成長しているからです。


神様はすべてのことについて「成長し続けている」という見方をされます。それは、次の3つのことを示します。


1.行ないで判断できない

赤ちゃんが今歩けないからといって、ダメだと判断するようなことはしません。成長してできるようになると分かっているからです。同じように、私たちはいろんなことができるように作られています。それを今の行ないでできていないからといってダメだと判断するのはおかしいことなのです。私たちの価値は行ないで判断することはできません。神様の判断基準は、私たちが誰の作品化ということです。美術品の価値が作者によるように、私たちは神様が造られたいのちであるゆえに、価値があるのです。行ないで判断すると、自分をダメだと落ち込み、人をダメだと裁くことになります。しかし、神様が造ったいのち、作品として、自分や人を見るなら、まるで違う視野が広がるでしょう。


2.希望がある

成長し続けているから、希望を抱くことができます。自分の現状を見て、あきらめたり落ち込む必要はないのです。今は理解できないことも、理解できるようになり、今はできないこともできるように神様によって変えられていくからです。


3.互いの間に愛がある

成長するのは、互いに助け合う愛の関係があるからです。助け合うほどにどんどん成長していくので、そこには人に嫉妬したりする余地などないのです。


『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(新約聖書 コリント人への第二の手紙 5章17節)


何が新しくされるのでしょうか?それは物を見る物差しです。古いもの、自分が今まで使ってきた物差しを捨てて、神様の物差しを使うなら、周りが新しく見えてきます。そうは言っても、私たちはずっと古い物差しを使ってきたので、なかなか手放すことができません。イエス様が処せられた十字架刑というものは、貼り付けられてから死ぬまでに時間がかかりました。長い人では2週間も生き延びたそうです。じわじわと弱って死んでいく、そういう恐ろしい刑でした。私たちの古い物差しも同様に、イエス様とともに十字架につけられ、死んでいくのには時間がかかります。しかし、イエス様は必ず取り除いてくださいます。古い物差しは神の国には必要がないからです。


私たちがつらくなる原因は、いつも私たちの物差しにあります。人でも環境でもありません。ですから、行ないを変えて事態を打開しようとしても、物差しが変わらなければ意味がありません。物差しを変えようとするとき邪魔をするのが、世の心遣いです。人に良く思われたい、すべて行ないによるものの見方です。それが神様の恵みを止めてしまいます。


自分の物差しに問題があるということに気がついたなら、その物差しをイエス様の十字架の前に差し出し、神様の愛の物差しを教えていただきましょう。古い物差しを使ってしまうことがあっても、イエス様は必ず私たちが愛の物差しを使えるよう助けてくださいます。私たちは神様の愛の中で成長し続けているからです。



神木イエス・キリスト教会


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