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2006年3月26日 礼拝メッセージ
救いのかぶとをかぶろう
(新約聖書 ルカによる福音書 12章49〜59節より)

『わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」』(新約聖書 ルカによる福音書 12章49〜59節)


イエス様を信じて、真理に従って生きるとき、世の中と摩擦が生じるのは避けられません。神様の物差しは常に「あなたを幸せにする」というものです。これは決して変わることがありません。それに対し、世の中の物差しは、「富を手にすること=幸せ」です。摩擦が生じた時、妥協して判断の物差しを世の中のものに戻さないようにしましょう。世の中の基準で本当に幸せになれるのか、判断する必要があります。


イエス様はここで、終わりの時に備えて正しい判断をすること、自分の物差しの間違いを認め、悔い改めることを勧めています。では、終わりの時に備えるとはどういうことでしょうか。それは、救いの確信を持つことです。今あなたの心臓が止まったら天国へ行けるという確信がありますか?実はこの確信を持たないでいる人が多いのです。


なぜ救いの確信が持てないのでしょう。それは、行ないで自分を見ているからです。こんなことをしている自分は救われていないのではないかと思うからです。サタンは私たちをどのように攻撃するかというと、神様の御言葉を逆の意味に置き換えて思いこませ、落ち込ませ、私たちが何もできないようにするのです。エバを誘惑するときも、イエス様を誘惑するときも、サタンは御言葉を用い、それを全く違う意味に思いこませようとしました。


同じように私たちに対しても、信仰によって救われるということばを覆し、「救われていない」と言ってくるのです。そして、「救われていないかもしれない」という不安を心に生じさせます。いつでも私たちが不安になるのは、御言葉を正しく理解しないためです。そして、不安になると、不安を消すために私たちがとる行動パターンには2種類あります。ひとつは、自分ががんばって良いことをするということです。しかしそれと同時に、人を批判し、さばくようになります。もうひとつは、自暴自棄になることです。前者は社会的に認められ、後者は認められません。しかしどちらも「不安を消したい」という同じ目的から出た行動です。


つまり、私たちが不安になる原因は、救いの確信がないことであり、救いの確信がないのは、行ないによって自分を評価しているためです。弟子達は信仰を行ないで捉え、信仰が大きければ評価を受けると思い、どうしたら大きくなるのかとイエス様に質問しました。それに対してイエス様は、「からし種ほどの信仰」があればよいと言われました。それは小さい信仰があれば良いという意味ではなく、大小といった見えるところ、行ないではなく、信仰が生きていればよいと言われたのです。種が生きていれば成長し実を結ぶように、信仰が生きていれば、自分の力ではなく神様によって必ず成長し、実を結びます。


ですから、行ないは信仰を判断する基準にはなり得ません。成長の速度や実を結ぶ時期は人それぞれ違います。しかし、生きていれば必ず実を結ぶ、つまり行ないがついてくるのです。


『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2章10節)


イエス様と一緒に十字架につけられた罪人は、イエス様に何と言われたのでしょうか。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」つまり、あなたは救われていると言われたのです。彼に何か良い行ないをする余地などありませんでした。彼はただイエス様を信じただけでした。そしてイエス様は彼の信仰を認め、行ないを問いませんでした。私たちも行ないができないからということで、救われていないと心配する必要はないのです。


『ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』(新約聖書 コリント人への第一の手紙 12章3節)


「イエスは主です」と告白できるなら、その人は救われています。何かができるようになったら、あるいは罪を犯さなくなったら救われるといった考えはナンセンスです。別の箇所には行ないによっては誰も救われないと書いてあります。良い行ないは神様が私たちにできるように備えてくださるのです。ですから、私たちがするべきことは、私たちの考え方がずれないように、ずれたときに悔い改めることです。


イエス様はある時、弟子達に「向こう岸へ渡ろう」と言われました。弟子達はそのことばを聞いて船に乗りました。信仰も同じで、イエス様のことばを聞いて信じたら、救いの船に乗り、一度乗ったらその船は戻ることはなく、自分から飛び降りない限り、必ず目的地に着きます。やがてイエス様と弟子達が乗った船は突風に見舞われます。弟子達はあわてふためき、イエス様につぶやきます。私たちも、救いの船に乗っていながら、イエス様がともにいるのに、状況を見てあせり、つぶやくことがあります。しかし、イエス様が向こう岸へ行こうと言われたなら、必ず行けるのです。それを信じることができないでしょうか。


神様は私たちを救うことに何の条件もつけていません。何者も神様の愛から私たちを引き離すことはできないのです。それなのに、私たちは自分で条件をつけます。これができないとダメ、こんなことをしてしまうからダメだと。そこから不安が生じ、問題が大きくなるのです。神様が罪を判断する基準は大変高いものです。行動しなくても、心に悪を思っただけで罪なのです。ですから、神様の目からはすべての人は罪人です。しかし、イエス様を信じる人は誰でも救われると神様は言われました。これは決して変わることがありません。自分自身の勝手な判断にだまされないで、救いの確信をしっかり持ちましょう。救いのかぶとをかぶり、主を待ち望んでいきましょう。



神木イエス・キリスト教会


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