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2006年3月19日 礼拝メッセージ
用心して待ちなさい
(新約聖書 ルカによる福音書 12章35節〜48節より)

『腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」』(新約聖書 ルカによる福音書 12章35〜48節)

ここで、イエス様はご自分が再び戻って来られる時のための注意をしています。目を覚まして待っていなさいと語られていますが、具体的に私たちはどのように主を待っていればよいのでしょうか。

腰に締める帯とは、神様のことばのことです。ともしているあかりとは、聖霊様のことです。つまり、神様のことばを自分のものとし、聖霊様とともに歩んでいるということです。このことをさらに掘り下げて見ていきましょう。


『また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(新約聖書 コリント人への第2の手紙 5章15〜17節)


神様のために生きるとはどういうことでしょうか。聖書の別の箇所に、終わりの時に神様に対して、自分は神様のためにこれをした、あれをしたと言う人に対して、神様がそれはあなたが自分のためにやったのだと指摘する場面があります。私たちもまた、神様のためと言いつつ、実は自分のためにやっていることが多いのです。


上の箇所に、神様のために生きるとはどういうことか、その答えが書いてあります。それは、人間的標準で人(自分、他人)を判断しないということです。言い換えれば、行ないで人の価値を判断しないということです。行ないを基準とした見方で生きるから、自分の行ないを誇るのです。つまり、神様のために生きるというのは、私たちのものの見方、ものさしを変えることであることが分かります。ローマ人への手紙 12章2節に「心の一新によって自分を変えなさい」とありますが、それはあなたのものさし(判断基準)を自分中心から神中心へと変えること、つまり、行ないではなく恵みのものさしに変えることです。


私たちのものの見方はどういうものなのか詳しく見てみましょう。まじめなクリスチャンほど、御言葉を読んで落ち込みます。自分にはとてもできないことが分かり、行ないができない自分をダメだと判断するからです。「行ない=価値」という見方で自分を見るからです。しかし、神様は私たちを落ち込ませるために御言葉を与えたのではありません。神様が意図したのは、人が自分の行ないで自分を正しいとする事ができないとに気づき、信仰によって義としてくださる神様の恵みを受け入れる事でした。私たちの価値は、神様が造られた時にすでに最高のものとされており、それは決して行ないによって変わる事がありません。


アダムとエバが罪を犯したとき、サタンは神様のことばを正反対に言い換えて彼らを惑わしました。これと同じことが私たちの心にも起こっています。神様は用意した恵みを受け取らせるために御言葉を与えたのに、サタンはその御言葉で私たちが落ち込み、自分をダメだと判断を下し、恵みを受け取らず、何もできないようにします。あたかも正当な理由で落ち込んでいると思わせます。


行ないで自分の義をたてようとすること、それが罪の本質です。私たちの価値はすでに決定して変わらないのに、「行ない=価値」という間違ったものさしによって、自分の価値が上がったり下がったりしたと思って私たちは一喜一憂していました。ですから、私たちの心が落ち込んだり、怒ったり、苦しいときは、「行ない=価値」という間違ったものさしで人を見たからに他なりません。そのことに気づき、悔い改めましょう。


また、私たちのものの見方に、行ないで報酬を受けるという考え方があります。これは社会において常識なので、神様に対してもそれを要求します。「祈ったのになぜ答えられないのか」など、神様に対してつぶやきが出るとき、私たちは神様を人間的標準で見ているのです。私たちが、神様はこうあるべきだと答えを用意しているから、神様は答えようがないのです。私たちは神様の考えの深さをどうして知り得ましょうか。神様に対して「なぜ」と言うことは、本当はあり得ないのです。


『そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。」主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。』(新約聖書 ルカによる福音書 12章41〜48節)


私たちは神様からそれぞれ違う素材をいただいています。神様は私たちがそれらをどのように料理するかに注目しておられます。短所だと思っているものも、神様から与えられた素材の一つです。用い方次第で、それを良い方向に生かし、長所にすることもできます。それらの素材を私たちは自分の価値だと思いこみ、人と違うからと言って一喜一憂していたのではないでしょうか。しかし、私たちの価値はそれとは関係なく決まっており、神様は私たち一人一人がいろいろなことをできるように、違う素材を与えてくださっているのです。与えられたものを使わずに落ち込んでいるのなら、それはもったいないことです。神様はそのような人を愚かなしもべと言います。与えられたものを忠実に用いていくなら、神様はさらに素材を増し加えてくださるとあります。


神様は行ないによって私たちを評価することはしません。私たちの罪を責めるのではなく、赦すために十字架にかかりました。それはご自分で私たちを造ったからです。美術品の価値は、誰が作ったかによって決まります。ピカソが描いたものならそれだけで価値があるのです。神様が造られた人なら、なおさら価値があるのは言うまでもありません。私たちは何かができるからではなく、神様に造られたから、最高の価値があるのです。


目を覚まして生きるということは、行ないで人や自分を見ないこと、そして与えられているものを生かして用いて生きていくことです。賢いしもべとして、自分のものさしを悔い改め、与えられているものを感謝し用いていきましょう。



神木イエス・キリスト教会


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