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2006年3月12日 礼拝メッセージ
パウロの苦しみ
(新約聖書 ルカによる福音書 12章22〜28節)

私たちが自分の価値を見いだす場所は2つあります。一つは見えるもので、もう一つは神のことばです。見えるものに自分の価値を見いだそうと思うなら、何か行ないをしなくてはなりませんが、神様のことばに対しては行ないをすることは意味がなく、必要なのは信じることだけです。行ないによってではなく、信じることによって得られる、それが恵みです。


見えるものに自分の価値をおくと、常に自分の価値が上下し、不安定なので、心は不安や不満になります。その不安や不満を取り除くためにするのが「怒り」です。私たちがイライラするのは、満足できない食事をしている、つまり、見えるものから自分の価値を得ようとしているからに他なりません。


一方、神のことばに自分の価値を置くと、自分の価値は変わることがありませんから、心は満足し、安定します。そして感謝が出てきます。私たちの口から何が出てくるか、それは私たちがどんな食事をしたかを表します。この世のものを食べれば、不平、不満が出てきますが、神様のことばを食べれば感謝が出てきます。


頭ではこのことが分かり、神様のことばを求めてはいても、現実の問題として、心はイライラし、見えるものを食べ続けている自分に、矛盾を感じないでしょうか。パウロもまた、この自己矛盾に苦しんだすえに、神様から答えをいただきました。


『私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:15〜25)



私たちの心は意識できる部分と意識できない部分(無意識)があります。体をコントロールしているのは大部分が無意識の部分です。パウロが気づいたのは、意識の部分では神のことばを求めているのに、無意識の部分が行ないで自分の価値を見いだしているという事実です。神の食事を食べず、この世の食事で価値を見いだし満足しようとすること、それが罪の根本です。信じることは意識できる部分の働きです。ですから、意識においては私たちは神様からの食事をします。しかし、無意識の部分が勝手に見えるものから食事をし、私たちの中に矛盾を生じさせ、苦しめるというのです。


私たちが救われたのは信じたから、つまり恵みによるのに、無意識の部分は「こんなことをしている自分が本当に救われているのか?」と自分を行ないでダメだと判断し、私たちを落ち込ませ、行ないをがんばらなければならないと思わせます。そうして恵みで始まったクリスチャンがいつしか、行ないを頑張ることで評価を得ようとするようになってしまうのです。


しかし、無意識の部分は、自分ではコントロールできないので、どうにもできません。パウロが25節で言っているように、矛盾を抱えたままで、意識の部分で神様に向かい続けることが大切です。無意識の部分の問題は、自分で何とかできる領域ではなく、神様が処理してくださる領域です。ですから、無意識の部分(肉)の声を聞く必要はありません。つい行ないを頑張ろうとする背景には、「救われていないかもしれない」という肉の声を聞いているからです。しかし、意識の部分で神様に向かっているのなら、肉の声が何と言おうと、救われているという事実は決して変わりません。私たちはこの救いのかぶとをかぶっている必要があります。


心が罪に汚染されないためにやらなくてはいけないことがあります。それは、心がつらくなったとき、人のせいにせず、自分のせいだと認めることです。心がつらくなるのは自分が間違った方向へ行っているサインです。自分の中に原因を見つけなければ、つらさはなくなりません。間違った方向とは、あなた自身が見えるものに価値を見いだしているからです。周りの状況や人のせいではありません。神様の愛は見返りを期待しませんが、私たちの愛は見返りを期待し、期待した見返りがないと腹を立てます。そして自分は悪くない、相手が期待通りにしなかったせいだ、自分は被害者だ、と肉の声は巧妙に言ってくるのです。そして、心は神様のことばを締め出し、肉の声を聞き、行ないを頑張りはじめます。


心がつらい、その原因は食事が間違っているからです。その罪を悔い改めなければなりません。神様が用意した食事を食べなかったため、心がつらいのです。そのつらさは神様が私たちの心をノックしているサインです。


『わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』(新約聖書 ヨハネの黙示録 3:19,20)


神様が用意してくださっているのは、恵みの食事です。私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったほどに私たちを愛し、私たちにそれだけの価値があることを示してくださった、その十字架の食事です。それに対して、私たちの行ないは何の意味もありません。意識の部分に戦いを挑み、行ないをがんばらせようとする無意識の部分は神様にゆだね、意識の部分ではいつも神様に向かい、神様の食事を味わい続けましょう。



神木イエス・キリスト教会


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