『そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。』(新約聖書 ルカによる福音書 12:1)
イエス様が言うパン種とは何でしょうか?イエス様は何を問題にしているのでしょうか?
それは、神様が私たちの行いを評価し、良い行いによって愛されるという間違った思いこみです。良い行いという着物を着なければ自分は神様に受け入れられないと、私たちは思いこんでいます。しかし、神様は私たちが何かできたからではなく、必要としてご自分で造ったから、私たちを愛しているのです。
神様が私たちについて喜ばれるのは、行いではなく信仰です。私たちが神様に捧げ得るいけにえとして聖書に記されているのは「賛美」だけです。賛美とは神様への応答、つまり信仰です。信仰によってクリスチャン生活を始めても、私たちはいつしか「こうしなければ神様に受け入れられない」と律法主義に陥りがちです。そうすると、奉仕をするにも報酬(評価)を求めるようになり、目的がずれていってしまいます。
『そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。』(新約聖書 ルカによる福音書 12:4,5)
なぜ人を恐れるのでしょうか。それは、私たちが恐れている人に依存しているからです。私たちは愛する人の反応が気になるものです。親に依存している人は、親の反応が気になり、会社に依存している人は上司の評価を恐れ、勉強に依存している人は、成績を気にします。それは、そこに自分の価値を置いているからです。そして自分の価値が損なわれないよう、気に入られるように行動します。
イエス様はここで、神を恐れなさいと言われます。つまりそれは神様を第一に愛しなさいということです。私たちは誰の言葉を聞くか、優先順位を持っています。神様の言葉と人の言葉、どちらに反応しているでしょうか。もし、人の言葉で落ち込むのであれば、神様よりも人を愛しています。
『五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。』(新約聖書 ルカによる福音書 12:6,7)
神様はご自分で造った者を忘れることは決してなく、造った者をいつも気にかけ、世話をしておられます。私たちの髪の毛1本までも把握しているとは、度が過ぎるほどです。神様以上に私たちを愛する方はいません。
『そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。』(新約聖書 ルカによる福音書 12:8,9)
神様を第一にしているか、その判断基準は、人の前で神様のことを恥じないかということです。
人類で最初に恥ずかしいという感覚を持ったのはアダムとエバでした。彼らが罪を犯したとき、自分の姿を恥ずかしく思い、身を隠しました。それは、人が行いに自分の価値を置いた瞬間でした。「恥ずかしい」とは、人によく思われたいという思いであり、行いに自分の価値を置く考えです。それによって、人がどう思うかが大切という生き方をするようになります。心が人に向けられ、神様にではなく人の言葉、世の中に自分の価値を置いています。だから不安になり、恥ずかしく思うのです。それが罪の本質です。
神様の言葉に応答するなら、苦しみや問題の中でも、自分はだめだ、価値がないと落ち込む必要はありません。聖書は何と言っているでしょうか。神様は私たちを行いで評価するのではなく、信じる人を赦し、救ってくださり、そのままで愛してくださっているのです。それを「アーメン」と素直に受け入れるだけです。自分を見てこんな自分が救われるのか、と思うのは、神様よりも自分の言葉を優先しています。うまくいかないときも、私たちの価値は変わることはありません。罪の本質は、神様ではない何かを第一にすること、それが偶像礼拝です。それは、神様のことばよりも人の言葉、人にほめられること、そういったことに心を留めることです。
『たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」』(新約聖書 ルカによる福音書 12:10〜12)
これは、いずれ裏切ることになる弟子達に向けて語られた言葉ですが、私たちにも語られています。「人の子をそしる」とは、イエス様を裏切ること、つまり、弟子達がイエス様を知らないと言ったように、人前で自分がクリスチャンであることを言えなかったこともそうですが、これまで述べてきたように、神様のことばにではなく人の言葉に目を向け、神様を第一にしてこなかったことです。それらのことは、悔い改めるなら赦されます。しかし、「聖霊をけがす」者、故意に悔い改めを拒否し続ける者には、神様はもはやどうすることもできません。権力者のところへ連れて行かれるというのは、弟子達が悔い改めた後、捕らえられることを言っているのですが、私たちに置き換えるなら、神様を恥としない生き方をすることを指します。そうするなら、聖霊様が助けてくださるから、心配するなとイエス様は言われます。
私たちが一番愛さなければいけないのは神様です。神様以外のものを第一にしているから不安や恐れが来るのです。今自分が一番心に留めているものは何か、それに気づき、神様のことばに応答していきましょう。 |