『忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。忌まわしいことだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
しかし、イエスは言われた。「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない。忌まわしいことだ。あなたがたは、預言者たちの墓を建てている。しかし、あなたがたの先祖は預言者たちを殺したのです。そのようにして、あなたがたは、自分の先祖のしたことの証人となり、それを認めています。なぜなら、あなたがたの先祖が預言者たちを殺し、あなたがたがその墓を建てているからです。だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。」
イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った。』(新約聖書 ルカによる福音書 11:43〜54)
イエス様はパリサイ人達に裏表があり、神様と人との間に壁を作ったことを指摘しています。その壁とは、神様に近づくためにこうしなければいけないという自分たちで作った「きまり(行い)」です。神様に受け入れられるためには、これをしなければならないと決め、それをやることで認められようとしました。そういった「行い」を、自分で作った「着物」にたとえることができます。実際の自分を隠すために、自分で作った良い着物を着ることで、よく見られようとするのです。それは神様のためではなく、自分が認められるためのものです。それは私たちもやっていることです。
人が自分で作った着物を着ることで、神様との間に壁を作る歴史は、アダムとエバから始まります。彼らは神様から食べてはいけないと言われていた実を食べ、罪を犯します。その時、自分を恥ずかしいと思い、いちじくの葉で身を覆い、神様から隠れました。自分で着物を作り、神様から身を隠したのです。彼らの子供であるカインとアベルは、神様に愛されるためにいけにえをささげ、どちらが神様に愛されるかを競いました。神様に受け入れられなかったカインは怒り、弟を殺します。カインは自分の作った着物(ささげもの)を自分だと錯覚し、自分の価値を着物ではかっていたのです。私たちも着物を良くしようと、努力します。学歴、仕事等で、良い評価を受けることを目指し、その評価がそのまま自分への評価と思い、一喜一憂します。そして、互いに着物で価値をはかるようになり、着物によってさばき合い、戦争が起こってきたのです。
神様は私たちが間違ったものに価値を置いていることをご存じなので、私たちが作る着物をはぎ取ろうとされます。まず、私たちにこのことを教えておられます。それは、着物は私たちを幸せにしないということです。私たちは良い着物をくださいと祈ります。良い大学にはいること、良い企業にはいること、良い結婚、良い家に住むこと、それらを手にすることで、人は幸せになったのでしょうか?手に入れても不安や恐れが来たり、また別のものがほしくなることを繰り返しているのではないでしょうか。
ソロモンは地上で最も良い着物を手に入れた人物です。富、知恵、名声、人がほしいと思うあらゆるものを手に入れました。しかし、彼はそれらのものを「すべてはむなしい」と言いました。イエス様は、ソロモンの着物は野の百合ほども着飾っていないと言われました。つまり、彼の着物には何の価値もないと言われたのです。
私たちが自分をよく見せようとして着物を作るのは、花が自分で服を作り、きれいだとほめてもらおうとするように愚かなことなのです。私たちはその服を美しいと思うでしょうか。花そのものの方がずっと美しいと思わないでしょうか。神様も、私たちをそのように見ておられるのです。神様が美しいと思うのは、ご自分が造ったもの、つまり私たちのいのちです。そして、神様が興味あるのは、ご自分の造ったいのちが成長し、御霊の実を結ぶことです。
自分の作った着物には価値がありません。自分の価値は自分で作ることができないのです。神様が造られたいのちであること、これが私たちの価値です。ですから、幸せとは、恵まれた着物ではなく、自分の本来の価値を知り、満ち足りた心、神様に感謝できる心です。
私たちはこれまで着物によって落ち込んだり喜んだりしてきました。それは着物に依存しているからです。ですから、試練(神様が着物をはぎ取るとき)が来ると抵抗し、つらくなります。聖書の中にも試練にあった人たちのことが書かれています。その代表的な人物であるヨブは、持っているものすべてをはぎ取られました。ヨブが神様を敬うのは神様がヨブに良い着物を着せているからであり、着物がなくなれば神様を呪うに違いないとサタンが神様に申し立てたからです。それまでは立派なクリスチャンであると自他共に認めていた彼は、自分が神様に対してつぶやくなどということは想像もつかないことでした。しかし、彼は神様につぶやく自分に出会い、ショックを受け、自分が罪人であることを認め、悔い改めました。
神様は私たち着るべき本当の着物を用意しておられます。それは、私たちの罪を覆う十字架の着物です。それを着ればもう着物の心配をする必要はなく、着ていれば私たちの内側も変えられていきます。着物(行い)によっては誰一人、神の国にはいることはできませんが、神様の前に自分を隠そうとせずにさらけ出していくなら、神様は抱きしめてくださり、罪を責めずに覆ってくださるのです。
二人の人が祈りに来ました。一人はパリサイ人で、自分の着物(行いができること)を誇り、そのことを感謝して祈りました。もう一人はある罪人で、自分の罪を認め、あわれんでくださいと祈りました。神様が受け入れたのは罪人の祈りで、彼は赦されました。クリスチャンは祈りについても、よく祈れば立派であるかのように思い違いをしています。「祈らなければいけない」(その時点で行いになっている)ではなく、祈らなければやっていけないから、それゆえに祈るのが本物なのです。
『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:14,15)
世界とは、行いによって評価する世界です。割礼は行いを象徴する最たるものです。新しい創造とは、十字架(イエス・キリスト)の着物です。十字架の着物を着ましょう。落ち込むのは、着ているものが間違っているからです。十字架の着物を着ていれば、人の評価や状況によって左右されません。また、内側に自分の汚さを発見しても、不安になることはありません。もはや自分の着物で何とかする必要はなく、十字架の着物を着ている限り、神様が私たちの内側を造り変えてくださるからです。 |