『イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。』(新約聖書 ルカによる福音書 11:14〜19)
パリサイ人達は、イエス様が悪霊につかれた人から悪霊を追い出しているのを見て、そのことによってもイエス様を批判しようとして、悪霊によって悪霊を追い出しているのだと主張しました。しかし、パリサイ人達もまた、悪霊を追い出すことを行っていました。ですから、イエス様への言いがかりによって、自分たちの働きをも否定しているのではないかと、イエス様は彼らに問いかけました。
『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。』(新約聖書 ルカによる福音書 11:20〜23)
強い人とはサタンのことで、分捕り品は人です。もっと強い者は神様です。つまり、サタンが人を捕らえても、神様によって人は解放され、自由になるのです。また、神様が人を見る時、中立の立場の人はいません。その人が神の側にあるか、そうでないかに分かれます。神様を信じるなら、神様とともに働いていくことを神様は望んでおられます。
『汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」』(新約聖書 ルカによる福音書
11:24〜26)
悪霊は汚い家を好むので、私たちの心にはいると汚していきます。しかし、イエス様は悪霊を追い出すと、乱雑だった私たちの心を片づけて下さいます。しかし、片づけられた心をイエス様に守って頂いていなければ、悪霊は前よりも激しい攻撃をしてきます。私たちがイエス様を受け入れ、イエス様がその心を守って下さっているのでなければ、無防備で、簡単に悪霊に荒らされてしまうのです。
『イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」』(新約聖書 ルカによる福音書 11:27,28)
「神のことばを聞いてそれを守る」とありますが、「守る」は「信じる」という意味も含まれています。律法を形式的に守っていても、イエス様を信じていないパリサイ人達に対して、イエス様は「幸いなのは神のことばを聞いて信じる人だ」というメッセージを送っているのです。
『さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。』(新約聖書 ルカによる福音書 11:29〜32)
イエス様が救い主であるというしるし、証拠を人々は求めました。しかし、旧約聖書にある預言者ヨナが、イエス様を救い主として示すひな型として与えられているだけだとイエス様は言われました。ヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、腹の中で苦しみました。人々の目には死んだものと映りました。しかし、三日後に魚から吐き出され、復活したのでした。そして、ヨナの語った言葉によってニネベの人たちは悔い改めました。まさにイエス・キリストが人々を悔い改めへと導き、ご自分の死によって赦しを与え、復活して永遠のいのちを与えるという神様のご計画を表したものであり、これ以上のしるしはないのです。
ソロモンの知恵を聞くために来た南の女王とは、神の言葉を熱心に聞く人を指しています。イエス様のことばを熱心に聞く者は、それ以上のしるしを求める必要がありません。すでに十分なしるしが与えられていることを知るからです。
『だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」』(新約聖書 ルカによる福音書 11:33〜36)
目が健全、つまり光である神様が見えているなら、心が健全です。光を隠さないで見なさいと神様は言われます。神様のことばを疑わずに信じるところへと、神様は私たちを導こうとされます。信仰とは神様のことばに対する応答です。「信仰がない」という言い方をしますが、そうではなく「応答していない」ということなのです。心が整理できなくても、応答することを始めましょう。そうすれば心もついてくるのです。 |