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2006年1月22日 礼拝メッセージ
サマリヤ人の話
(新約聖書 ルカによる福音書 10章21〜37節)

『ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」…』(新約聖書 ルカによる福音書 10:21〜24)


イエス様は聖霊によって喜びにあふれたと書かれています。神は、父、御子(イエス・キリスト)聖霊の3つの位格によって形成されています(三位一体)。聖霊とはその一つであり、つまり神様ご自身のことです。聖霊による喜び、つまり神様が与える喜びがあります。イエス様は何を喜ばれたのでしょうか。それは、神を知ることは人の知識によるのではなく、神によるということです。イエス様が父なる神様について知らせようとした人とは、弟子のことです。ユダヤの人々は預言されていた救い主を待ち望んでいたのに、イエス様を救い主として受け入れませんでした。


『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」』(新約聖書 ルカによる福音書 10:25)


ここから始まる、律法学者とイエス様との間のやりとりを通して、イエス様が重要なメッセージを語っておられます。律法学者は「どうしたら永遠のいのちを得られるか」と聞きました。いつの時代も最重要テーマは、「永遠のいのちを手にすること」です。そうでなければ、いくらこの世で成功して色んなものを手にしても意味がありません。聖書の他の箇所に書かれているとおり、永遠のいのちを手にする方法はただ一つ、イエス・キリストを信じることです。しかし、律法学者たちはイエス様を救い主として認めていませんでした。そのため、試そうとして質問したと書かれています。イエス様はそんな彼らの思惑を分かった上で、彼らに答えられました。


『イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」』(新約聖書 ルカによる福音書 10:26〜29)



律法学者は、神様から与えられた律法を守ることによって永遠のいのちを与えられると考えていました。そこで、イエス様はそれを実行できれば永遠のいのちを与えられると答えられました。律法学者は自分がそれを実行していることを証明しようとしてさらに質問します。しかし、先にも触れたように、永遠のいのちは律法を守ることによってではなく、イエス・キリストを救い主として信じることによって得られるものです。イエス様はここでなぜ、律法学者に「律法を実行しなさい、そうすればいのちを得ます」と答えられたのでしょうか。イエス様は続けて、次のようなたとえを話されます。


『「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』(新約聖書 ルカによる福音書 10:30〜37)



37節の最後のイエス様の言葉は、現代訳聖書では次のように書かれています。
「あなたも、この人のように真実に隣人を愛してみようと思ってご覧なさい。それが自分の力だけでできるかどうか。」


自分の力だけで、真実に隣人を愛することができるか。私たちはそうしたいと願いますが、実際にやってみようとするとできないことが分かります。見かけはそのような行いができても、その動機が自分が賞賛されることや、自己満足のためなら、神様の前に真実に愛しているとは認められないのです。誰ひとり、律法を完全に実行することはできません。イエス様は律法学者に、このことを気づかせたかったのです。


パウロの手紙の中で、律法は私たちを神様へと導く養育係であると書かれていました。つまり、律法があるから、私たちは自分が罪人であることを知り、神様が必要であることに気づき、神様に助けを求めることができるのです。そうして神様に自分の罪を告白するならゆるされ、救われて永遠のいのちをいただくのです。もし律法を完全に実行できたら、神様は必要ありません。ですから、「隣人を愛しなさい」という神様のことばを読んで、自分にはできないと思うなら幸いです。それで落ち込む必要はありません。そこで神様が必要であることに気づき、神様に助けを求めることを神様は待っておられるのです。


それでは、私たちがクリスチャンとしてなすべき隣人愛とは何でしょうか。

まず、未信者の人たちに対しては、彼らが永遠のいのちを手にすることができるように、福音を宣べ伝えることです。物質的に助けることも時には必要かもしれませんが、それらもその人が神様の元へ導かれることを第一に考えて注意深くする必要があります。誰かがお金に困っているからといって、お金を施してその人が楽になったとしても、永遠のいのちを得ることがなければ、意味がありません。最も重要なのは永遠のいのちを得ることです。的をはずさないようにしましょう。


次に、クリスチャン同士の場合は、お互いが神様に信頼できるように助け合うことです。助けることの第一の目的が、いつでもその人が神様に目を向けることができることであるべきです。ですから、誰かが困っている時、まずすることは祈りのサポートです。困っているからと言って、物質的な、または具体的なサポートをすることにより、その人が神様に頼ることを妨げる場合があります。あくまでも神様に頼るために助け合うということを忘れてはなりません。


自分も人も、神様を愛することに向かうようにしましょう。自分の限界、弱さを知り、ますます神に頼り、本当の意味で神様と共に歩むことができますように。



神木イエス・キリスト教会


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