『その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』(新約聖書 ルカによる福音書
10:1〜2)
イエス様は弟子達を遣わしました。神様は何でもすることができますが、私たちにできることは自分でさせます。しかし、私たちにできないこと、神様にしかできないことがあります。それに関しては「祈りなさい」とここで言われているように、神様に祈り求める必要があります。神様と人にはこのような役割分担があります。ですから、的はずれな祈りをしないようにしましょう。
では、神様には何でもできるのに、なぜ私たちの祈りが必要なのでしょうか。それは、私たちが一つのキリストの体としてお互いに助け合うように作られているからです。ですから、誰かが弱ればとりなして祈り、神様に助けを求めるよう、神様は望んでおられます。
『さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。』(新約聖書 ルカによる福音書
10:3)
ここでの子羊はクリスチャンを指します。羊の天敵である狼は羊の命を奪います。そのように、クリスチャンの命=永遠のいのちを奪おうとする者がこの世にあるということをイエス様は示唆しています。人生において何が一番大切なのでしょうか。それは、永遠のいのちを手にしているかということです。人生にとって最大の問題は死が訪れるということです。死の問題の解決が人にとって一番の課題なのです。しかし、世の中にはそこから目をそらさせようとするものがたくさんあります。
聖書の中に、羊飼いが99匹の羊を置いて、迷い出た1匹の羊を探しに行くという記述があります。99匹を置いていけるのは、群れで守られているからです。しかし、1匹になると命を奪われます。クリスチャンは毎週礼拝を守りますが、集まることで私たちは守られているのです。しかし、群れから出ると羊と同じようにクリスチャンもいのちを奪われてしまうのです。
『財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。』(新約聖書 ルカによる福音書
10:4)
人生において、見えるものではなく神様だけに信頼する訓練を私たちは受けます。私たちの心が見えるものを頼れば、いのちを失います。神様に信頼することは苦労を伴います。しかし、その苦労は必ず益となります。また、ここで挨拶してはいけないというのは、無駄話をするなという意味です。それは、十字架が迫っている時に1人でも多くの人に福音を伝える必要があったからです。
『そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい。しかし、町にはいっても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。『私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです。ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちの間に起こった力あるわざが、もしもツロとシドンでなされたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。しかし、さばきの日には、そのツロとシドンのほうが、まだおまえたちより罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスにまで落とされるのだ。』(新約聖書 ルカによる福音書
10:9〜15)
マインドコントロールというのは、自分で選択しているように思わせ、実は一つの道しか選択できないように情報を提示する手法です。しかし、神様はそのようなやり方をなさいません。福音を受け入れる、受け入れないは私たちの側の責任で選択するように委ねられています。
『あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」』(新約聖書 ルカによる福音書
10:16)
神様は人を通して働かれます。牧師は神様が指導者として立てた人であると聖書に書かれています。神様が立てた牧師の指導に従えないものは、神様の指導を受けることができません。
『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』(新約聖書 ルカによる福音書 10:17〜20)
弟子たちのように、主の名において何かをすることができたら、私たちもうれしいものです。しかし、イエス様はそういったことではなく、永遠のいのちが与えられていることを喜びなさいといわれました。人にとって最も大切なものであり、最大の喜びはそこにあるからです。また、永遠のいのちを持っている私たちに害を加えるものは一つもないという、力強い励ましを神様は与えて下さっています。
人生は永遠のいのちを手にするか、しないかという勝ち負けのはっきりしたゲームであるとも言えます。物事の本質を見ないで、欲望を満たそうとしていると惑わされ、いのちを奪われます。何が一番大切なのか、いつも心に留めて生きていきましょう。 |