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2005年12月4日 礼拝メッセージ
そこに見えたのはイエスだけであった
(新約聖書 ルカによる福音書 9章28節〜36節)

『…イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。』(新約聖書 ルカによる福音書 9:28)

イエス様はなぜ祈る必要があったのでしょうか?
私たちにはなぜ祈りが必要なのでしょうか?

1.神様と交わり(コミュニケーション)を持つため

三位一体の神様(父、子、聖霊)の間には常に交わりがあり、私たちもまた、交わりを必要とする存在として造られています。神様とのコミュニケーションは、まず、私たちの気持ちを伝えることからです。人とのコミュニケーションと同じように、自分の気持ちを伝えなければ、表面的な交わりだけに終わり、深い交わりになりません。そのように神様にボールを投げるのです。ただ自分の気持ちを伝えるだけでは一方通行で、交わりとは言えません。神様からもボールが投げられています。神様からのボール、それは御言葉です。御言葉を受け止め、応答する必要があります。神様の御言葉に対する応答、それは感謝です。言葉を語るだけでなく、賛美すること、また異言で祈ることも祈りに含まれます。


祈りは願い事を言うことだけではありません。ですから、願い事が起きた時だけ祈るのではなく、絶え間なく続く交わりなのです。私たちの心には、「本当に大丈夫だろうか?」という不信仰がつきまとうものです。そんな時、演歌を1時間聴いた場合と、賛美を1時間聴いた場合とでは、その後、どのような心になっているでしょうか。また、明るい人と交わると明るい気持ちになります。交わる人の影響を私たちの心は受けるのです。これは交わりの法則です。ですから、神様と交われば交わるほど、神様の影響を受けるのです。私たちの内にはたましいがあり、そのたましいを励まして下さるのが神様なのです。


2.信仰は希望を生み出す

私たちの心に希望がないのなら、神様との交わりが必要です。神様と交わるなら、必ず心に希望がわき上がります。


3.とりなしの必要

自分のためだけでなく、人のために祈ること、それは神の愛です。これは神を信じるクリスチャンにしかできないことです。「隣人を愛しなさい」と聖書に書いてありますが、それはまず、その人のために祈ることです。人のために何か良いことをすることよりも先に、私たちは祈るべきなのです。
このように神様との交わりは、信仰と希望と愛の源となります。そして、祈りによって私たちは信仰と希望と愛の人に変えられていきます。


『祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。』(新約聖書 ルカによる福音書 9:29〜31)


モーセとエリヤは旧約聖書に登場する人物で、それぞれ律法と預言を象徴する人物です。ふたりは旧約聖書全体を象徴するとも言えます。連れていた3人の弟子はペテロ、ヤコブ、ヨハネであると想像されます。彼らだけがイエス様がキリストであることを知っていました。イエス様は彼らには自分の正体を明らかにしようとされました。ここで、モーセとエリヤが登場してきていることは、私たちの周りに見えない世界が取り巻いていること、1人ではないということを示唆しています。


ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。


『彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」と言う声がした。この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。』(新約聖書 ルカによる福音書 9:32〜36)


この光景は神様がモーセに現れた時にも似ています。それを見てモーセが恐れたように、弟子達も恐れました。恐れるのは神様が恐いというよりも、権威があるからです。神様に対する恐れがなければ、私たちは誰も見ていないからと平気で悪いことを選択します。しかし、神様が見ていると知っていれば、そうなりません。神様への恐れは私たちの祝福なのです。


またペテロは、イエス様とモーセとエリヤを同列においてしまいました。これはとんだ的はずれでした。そのことを教えるために神様はモーセとエリヤを隠し、イエス様だけを見せて、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」と言われました。モーセにしてもエリヤにしても、クリスチャンにとって見れば英雄です。彼らは私たちが頼りにするものを象徴してもいます。私たちが頼りにしているものを差し出しなさいと神様は言われます。すべてを差し出して、最後に残るのはイエス様だけでなければなりません。


私たちは色んなものを支配しようとしています。思い通りにしたいと思っています。親は子を、子は親を、夫婦は互いに、相手を支配しようとするほど、コミュニケーションはうまくいかなくなります。苦しみは支配するほど増し加わります。しかし心の平安は、イエス・キリストが私たちの心をどれだけ支配するかによって増し加わります。


『あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。』(新約聖書 コリント人への第一の手紙 6:15〜17)


最後に残るのは私たち自身、つまりキリストのからだです。どんなに私たちが何かを所有してより頼んでも、それらは残りません。モーセとエリヤが消えたのと同じです。残るのはイエス・キリストです。決して捨てることができないものです。なぜなら、私たちはキリストの体の一部だからです。神様としっかりコミュニケーションをとり、一つ霊となる時、私たちの内には神の思い、すなわち信仰と希望と愛が生まれるのです。



神木イエス・キリスト教会


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