『イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。どんな家にはいっても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。人々があなたがたを受け入れないばあいは、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」』(新約聖書 ルカによる福音書
3:5)
イエス様は弟子達を遣わす際、何も持っていかないようにと言われました。イエス様は見えるものにではなく、神に信頼するようにと、私たちにも語っておられます。また、どんな家でも福音を語るように言われました。救いは神様の働きであり、私たちが判断するものではありません。私たちから見て、福音が受け入れられないように見える場合でも、神様は見えないところで働いておられるのです。また、福音が受け入れられなかった時に、足のちりを払い落とすというのは、神を受け入れるか受け入れないかは、当人に責任があることを意味しています。最後の審判の時、信じなかったことの言い分けはできません。
『さて、国主ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。それは、ある人々が、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。」と言い、ほかの人々は、「エリヤが現われたのだ。」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者のひとりがよみがえったのだ。」と言っていたからである。』(新約聖書 ルカによる福音書
9:7,8)
ヘロデはイエス様と弟子達のしたことを聞き、何が起こっているのかと当惑しました。私たちは、自分の経験、知識を超えた事を、無理に自分の経験に当てはめようとし、それができないと当惑するものです。しかし、神様は私たちの理解におさめることのできない方です。私たちは自らの無知を素直に認め、神様の言葉を素直に受け入れることが大切です。理解できなくても、神様が言われるならと、素直に神様が用意されている舟に乗るなら、必ず目的地へたどり着くのです。
『さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。
そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言った。しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」
弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。』(新約聖書 ルカによる福音書 9:10〜17)
イエス様の話を聞こうと集まってきた群衆に対し、イエス様は喜んで福音を伝えているのに対し、弟子達は時間も遅いのにこんなに人が集まって、このままではみな帰れずに困ってしまうだろうと気をもんでいます。そして、イエス様に自分の心配を訴えた弟子達に対し、イエス様は「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と言われました。私たちはこの弟子達と同じです。現実を見て心配し、つぶやきます。そんな私たちに対して、イエス様は「心配するなら自分でやりなさい」と言われます。
しかしこの問題は弟子達にできることをはるかに超えていました。そんな弟子達を見て、イエス様は5000人に食物を与えるという奇蹟を行われます。これは、弟子達がイエス様を信じたからではありません。イエス様はこのことを通し、弟子達に主に信頼することを教えたかったのです。主に信頼するなら、主がやって下さるのです。
人生にはいつも2つの選択肢があります。一つは、自分で心配し、自分でやること。もう一つは主に信頼し、主の用意した舟に乗ることです。難しい問題にぶつかった時も、神様ならなんとかして下さると、信頼して進むなら、道は開かれます。楽しい人生は、主を信頼するところにあります。 |