私たちの心は、自分の価値を表す実を欲します。自分の価値を表す実は2種類です。一つは神様を信じることにより、神様から与えられる絶対的な価値です。もう一つは人と比較することによって自分の行いを判定して手にする価値です。神様は人間が神様から与えられた価値の実を食べるように意図されました。しかし、アダムとエバが善悪の知識の木から実をとって食べたことにより、私たちはみな、行いの実を食べるという間違った習慣を身につけてしまいました。
『神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』(旧約聖書 創世記 2:16,17)
これは神様が最初の人間であるアダムとエバに与えたたった一つの注意です。善悪の知識とは、価値を判定する能力のことです。つまり、この実を食べるということは、自分で価値の実を作って食べるので、神様を必要としないということです。こうしてアダムとエバは、比較の世界の扉を開けたことにより、人は神様抜きに自分の価値を判断し、満足を得ることを知ってしまったのです。彼らの子供であるカインも弟アベルと自分を比較し、アベルが神様にほめられたのを見て嫉妬し、ついに人類最初の殺人に至りました。そして私たちもアダムとエバの子孫であり、比較の世界にどっぷり浸かっているのです。
一方、神様が与える価値は、私たちの行いとは関係なく一方的に与えられるもので、イエス・キリストが身代わりに十字架にかかって死んで下さったほどに愛されるほどに素晴らしい価値です。それは私たちの行いによって決して変わることがありません。何かができたら価値が上がることも、できなかったら下がることもありません。
神様は人間に律法を与えられました。その目的は、律法によって人が自分の弱点を知り、その部分を変えていくために用いることでした。パリサイ人や律法学者の過ちは神様から与えられた律法を人を評価する基準に使い、律法の本質を変えてしまったことです。いま世の中で行われているテストも、本来はできないところを見つけ、それを強化するために用いられるべきですが、その人を評価する基準として用いられているのが現状です。律法は必要なものですが、私たちは用い方を間違えているのです。
『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』(新約聖書 コリント人への手紙第2
2:10〜11)
出来事に対して、私たちは必ず「ゆるす」「さばく」どちらかのドアを開けています。そして、何気なく「さばく」ということをしていることが多いのです。しかしこの小さな「さばく」行為が大きな苦しみとなり、死に至らせるのです。上の聖句に、さばくことがサタンの罠であることがはっきり書かれています。さばくことは本当に危険な行為なのです。人生をゲームにたとえるなら、神の国に入れた人が勝ち、入れなければ負けとなります。神の国に入るには、比較ではなく神様から与えられた価値を受け入れること、ただそれだけです。
ゲームの敵であるサタンや悪霊はあなたがさばくというドアを開けるように巧みに勧誘してきます。しかし、私たちには味方である父なる神様、子なる神様、聖霊様がおられます。
『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』(新約聖書 エペソ人への手紙
6:11,12)
怒り、落ち込み、嫉妬といったものはすべて、比較によるもので、さばく行為にあたります。比較した結果、自分の価値が下がったと思ったからそういった感情が出てきたのです。逆に価値が上がったと思ったら傲慢になります。自分がどちらの入り口に入ったかは、外側に出る言葉や行動ではなく、起こった感情によって分かります。ネガティブな感情を持ったなら、「さばく」という入り口に入っていることが分かります。この解決は、入り口を変えることです。幸いなことに私たちには間違った入り口に入っても、非常口という道が用意されています。自分の過ちを悔い改めることによって、「ゆるす」という正しい入り口に入ることができるのです。比較というまずい実を食べる習慣を私たちは変える必要があります。だまされないで正しい食事をしましょう。
人は常に愛されるべき価値ある存在です。しかし、罪は常に憎むべきものです。ですから、罪は責めてもその人自身は憎むべきではありません。その人の行いと価値は切り離して考えなければなりません。神様はあなたを、そしてすべての人をそのように見て下さっているのです。それを忘れてはなりません。イエス・キリストを信じたらすべての人は天国へ行きます。それは何とうれしい喜ばしいことでしょうか。そのことを思ったら、地上でのことは落ち込む必要はないはずです。必ず天国へ行けるのですから。それなのに落ち込み悩むのは、比較の世界にいるからに他なりません。ささいなことだと思ってさばき続けるなら、どんどん出られなくなってしまいます。神様は私たちの本来の価値を教えて下さいました。比較というまずい実を得るのをやめ、その本物の実を受け取って生きていきましょう。 |