『さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。』(新約聖書 ルカによる福音書 7:.36〜39)
当時のイスラエル地方の習慣では客人を迎える時、まず足を洗い、香油を塗ってもてなしました。しかし、イエス様を迎えたパリサイ人はそれをしませんでした。イエス様がパリサイ人の家に招かれたと知った1人の女性は、罪深い女と記されていますが、娼婦であったとされています。彼女は人生をやり直したいという望みを持ち、イエス様のところへ行きました。そこで彼女は自分の今までの罪を悔い改めて涙を流していました。
彼女は涙でイエス様の足を洗い、足に口づけをし、香油を塗りました。この彼女の一連の行為には重要な意味があります。流された涙は、悔い改めを意味し、足への口づけは感謝を意味し、香油を塗ったのは感謝の具体的な実行を意味します。
一方パリサイ人達はこの光景を見て、イエス様は偽預言者に違いないとの確信を深めていました。彼らは分離主義といって、罪深い人とは決して交わることをしませんでした。ですから、こう思ったのです。本物の預言者であれば、この女性が罪深いことがわかるはずなのに、イエス様は彼女と交わり、しかも、ラビと呼ばれる教師は女性に体を触れさせないにもかかわらず、イエス様は触れさせることを許しているのは、預言者でも教師でもない証拠であると。
この女性の行為は、パリサイ人達にとってはイエス様に対する批判材料でしかありませんでしたが、実はいっしょについて来た弟子達も、この行為の意味が分かっていませんでした。そこで、イエス様はペテロに向かって教え始められます。
『するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」』(新約聖書 ルカによる福音書 7:40〜50)
イエス様はペテロに対し、ペテロが足を洗う水をくれなかったこと、口づけをしたこともないこと、つまり、主に感謝を表したことがないということを指摘します。イエス様がここで弟子達に最も伝えたかったことは、罪を多く赦された者は多く愛するようになるということです。(47節)この女性のような愛の行為は、罪の赦しによってわき上がる感謝ゆえなのです。
ここから分かる、私たちが愛の人になるために必要なことは次の通りです。
1.自分の罪深さに気づく
私たちは自分の罪深さになかなか気づきません。私たちの罪深さは底なしです。そのことにパリサイ人達はもちろん、ペテロも気づいていませんでした。むしろ自分はそんなに罪深くないと思っていました。しかも、自分が一番イエス様を愛していると自負していました。彼は、イエス様が捕らえられた時にイエス様を裏切ってはじめて、自分の罪深さに気づき、悔い改めて変えられたのです。見えるところは罪を犯していなくても、私たちの罪深さは皆同じです。見える部分が違うだけです。見える部分がまじめで良い人は、見える部分が悪い人よりも、自分の罪深さに気づきにくいかもしれません。人は罪を認めたくないので、悔い改めを妨げる強烈な力が働きます。それは神の恵みを止める肉なる力ですが、それと戦い砕かれるように祈る必要があります。肉なる力が砕かれて悔い改めに至るなら、神様は必ず赦して下さいます。
2.悔い改めたら赦されたと信じる
これほどの罪を赦して下さったと知ると、感謝がわき上がるものです。その感謝を表すものが愛の行為です。この女性は悔い改めて赦されたからこそ、愛の行為ができたのです。私たちの内にはいつも罪が潜んでいます。それを掘り出し、悔い改め続けるなら、私たちの心はいつも赦された感謝があり、それが愛の行為を生み出し、私たちは愛の人となるのです。
イエス様は最後に女性に対して、あなたの信仰があなたを救ったと語られました。彼女は自分は罪深いが、イエス様のところに行けば赦される、人生をやり直せる、イエス様が救い主であると信じてイエス様のところへ行き、悔い改めの恵みを受けました。すべては私たちの信仰によって始まるのです。 |