『このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。』(新約聖書 ルカによる福音書
6:12)
イエス様が1人になって祈る場面が時々何気なく聖書に出てきます。イエス様は神様ですが、人として地上で過ごされ、神様との交わりをいつも大事にしておられました。これは私たちにとっても神様との交わりがいかに大切であるかを示しています。
『夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。』(新約聖書 ルカによる福音書
6:13)
忘れてはならないのは、イエス様が弟子を選んだのであって、弟子がイエス様を選んだのではないと言うことです。これは神様に主権があることを表しています。すべての人の命は神様の手の中にあります。私たちは国籍、性別、親・・・何一つ自分で選んだのではなく、神様によってそのように定められて生まれてきました。私たちは造られた者であり、神様の主権のもとにあるのです。ですから、自分の置かれた状況に文句を言うことはできません。
『群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。』(新約聖書 ルカによる福音書
6:19)
イエス様にさわった人たちがいやされたのは、イエス様を信じたからでした。しかし、イエス様の最終的な目的は一時的ないやしではなく、永遠に続く完全ないやしである「救い」にありました。ですから、いやしという目に見える奇蹟の後、イエス様は神様のことばを人々に語られます。永遠のいのちの世界にはいるために、この地上で神様から目をそらさず歩んでいくために、私たちには神様のことばが必要だからです。
『イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのですしかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。』(新約聖書 ルカによる福音書
6:20〜26)
世の中で不幸だと思われることを、イエス様は「幸い」であると語り、世の中で幸せだと思われることを「哀れ」だと語られました。イエス様にとって、何が幸いで、何が哀れなのか、そこには一つの判断基準があります。それは、神様とのつながりを持っているかということです。神様とのつながりなしに生きているのなら、環境が恵まれていても意味がなく、むしろ良い環境が神様との関係を妨げることがあります。逆に、不幸な環境が神様との関係を築くチャンスとなることがよくあります。
富むこと自体は悪いのではなく、イエス様は「貧しくなれ」と言っているのではありません。イエス様が問題にしているのは神様との関係だけです。恵まれた環境においても神様を必要としている人はいます。しかし、自分の生活に満足している人の多くが、神様を必要としていないのが現状です。その場合、その恵まれた生活が神様との関係を妨げているから「哀れ」だと、イエス様は言われるのです。
『しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。…自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。
… ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。』(新約聖書 ルカによる福音書
6:27〜36)
イエス様はさらに、世の中の感覚とは逆のことを語られます。「敵を愛しなさい」とは、普通の発想ではあり得ないことです。旧約聖書の時代では、神様ご自身が「敵を滅ぼせ」と命じられる箇所が出てきます。これは、イスラエルの民が滅ぼされれば、神のことばも滅ぼされる危険があったからでした。しかし、新約の時代では、聖書のことばは守られ、世界中に行き渡っています。ですから、敵を滅ぼして聖書のことばを守る必要はもはやないのです。この時代にあって、イエス様は一歩進んだ学びを私たちに求めておられます。それは、愛を実行することです。問題が起きた時、争いによってではなく、愛によって解決することです。それは普段の生活の中でもできることです。争いによってではなく、愛によって世界を変えてゆけたら、素晴らしいことです。
『さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」』(新約聖書 ルカによる福音書
6:37,38)
さらにイエス様はことばを続けられます。さばくのは私たちの仕事ではありません。私たちが神様から与えられた仕事は人を愛すること。それはすべての人がどの環境においてもできることです。イエス様は最も大事な戒めは「神を愛すること」と「人を愛すること」だと言われました。それがすべての戒めを総括しているのです。生活の中で、愛することを実行していきましょう。 |