『この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。』(新約聖書 ルカによる福音書
5:27)
ここに登場するレビという人は後にイエス様の弟子となるマタイのことで、マタイの福音書を書いた人物です。取税人とは、今で言うやくざのようなもので、税を不正に取り立てて民衆を苦しめ、自分の懐に入れていました。ですから、人々には嫌われ、罪人の代名詞のように認識されていました。取税人レビは、初めて会ったイエス様に何もかも捨ててついて行きました。普通なら、初めて会った人について行くようなことはしません。なぜ彼はそうしたのでしょうか。
イエス様が病をいやし、罪を赦される噂は彼のところにも届いていました。噂を聞いた人々はみな、イエス様のところへ行きました。しかし、彼は行かないで一人取税所に座っていました。それは、彼は自分のような人間がイエス様のところへ行っても、イエス様には見向きもされないし、自分が救われるわけがないとあきらめていたからです。自分とは関係のないことだと。しかし、イエス様の方から彼のところへ来られ、「私について来なさい」と語りかけられました。彼は自分のような者にイエス様が自ら関わって下さり、招いて下さったことに感動し、ついて行ったのでした。
『そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』(新約聖書
ルカによる福音書 5:28〜32)
イエス様が地上に来られた目的がここでもはっきり語られています。それは、罪人を悔い改めさせるためです。ですから、レビのところへも来られたのです。では、神様はどのように悔い改めへと導かれるのでしょうか。
1.神様は自分を罪人と認識する人のところへ来られる
自分を立派だと思っている人は、神様を必要としていません。神様を必要としない人、自分を罪人と認識しない人は、神様もその人と関わりがないと言われます。神様と私たちとの接点は悔い改めにあるのです。
2.神様は共に生きてくださる
イエス様はレビと食事をしました。食事は生活を共にすること、共に生きることを象徴しています。
3.神様は苦しみを受容する
苦しみの理由は外側にあるのではなく、私たちの内側にある罪です。苦しみの本当の理由を理解させ、その罪を赦すことがイエス様の目的です。
『彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」
イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」』(新約聖書 ルカによる福音書 5:33〜39)
皮袋とは私たち自身を表しています。新しいぶどう酒はイエス様のことです。私たちが新しい皮袋でなければ、イエス様という新しい恵みを入れることができないことを表しています。弟子達はちょうど新しい皮袋のようで、パリサイ人達は古い皮袋です。パリサイ人達はイエス様の恵みを閉ざしてしまいました。私たちも、古い皮袋になってしまう場合があります。新しい皮袋であり続けるために、必要なことがあります。
1.自らの罪深さを忘れない
イエス様が2人の人の祈りについて話されました。1人はパリサイ人で、自分が律法を落ち度なく守り、立派であることを感謝する祈りをし、主はこの祈りに絶望されました。もう1人は罪人の祈りで、こんな私をあわれんでくださいと地にひれ伏して祈り、主はこの祈りに感動されました。
自分を立派だと思うと、人の話を聞かなくなり、行いで互いを見るようになります。上の箇所でもパリサイ人達は、イエス様の弟子のことを断食をしないと批判しました。クリスチャンもまた、自分が多少行いができるようになると、他人の行いを批判することに陥りがちです。しかし、さばかないことが大切であることを、イエス様はいつも言っています。
2.神の恵みを忘れない
ものを見る物差しは2つしかありません。それは、比較の物差しと恵みの物差しです。比較で見るとは、自分をはじめ、すべての価値を比較の中で見出そうとすることです。しかし、比較できないのが価値であり、それを無理に比較しようとするからおかしくなるのです。人より優れていると思えば喜び、劣っていると思えば落ち込み、と常にアップダウンの繰り返しです。
一方、恵みで見るなら、すべてが感謝になります。主が造られた自然の絶妙なバランスを見るなら、すべての生き物が必要で、どれ一つかけては自然のバランスが崩れてしまうことが分かります。一部だけを見て被害を及ぼすように思われる生き物を駆除してしまうと、その生き物の食物になっていた生き物が異常に増え、自然全体に深刻な影響を及ぼすのです。すべての生き物が互いに必要とし、絡み合っているのです。私たち自身もその一部です。
3.神から決して離れない
私たちは神様から栄養をもらってはじめて、生き生きと生きていくことができます。 |