『さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。』(新約聖書 ルカによる福音書 5:12〜16)
神様は、私たちの告白に応じて答えられる方です。私たちが何を告白するか、神様に対して何をイメージするか、それに従って神様も答えられます。この箇所に登場する病人も、イエス様のお心一つで自分はいやされると期待して告白したのでいやされました。イエス様はこの人をいやした後、次の3つの注意をしています。
1.誰にも言ってはいけない
世の中の宗教はこういったいやしの奇跡を宣伝材料にします。しかし、神様の第一の目的は、一時的、部分的な病のいやしではなく完全ないやしである罪の赦しです。病のいやしがクローズアップされると、人々は間違った目的でイエス様のもとに集まってしまいます。ご自分の来られた目的がずれないように、イエス様は敢えてこのことを言わないように注意されたのです。
2.祭司に見せなさい
祭司達はイエス様を救い主だと信じていませんでした。イエス様は、イエス様の言葉を信じない祭司達が、わざを見て信じることができるように、祭司達にはいやされたことを告げるように言ったのです。
3.きよめの供え物をしなさい
いつでも忘れてはならないのは神様に感謝をすることです。いやされたなら、そのことも神様に感謝することが、人々への証にもなります。クリスチャンは献金をして神様の祝福に対する感謝をあらわしますが、これは世の中からすると驚くべきことです。しかし、感謝があるから捧げることができ、これが世の中に対する証となります。
イエス様の注意にもかかわらず、いやしの噂は広まって、人々はそのために集まってきました。しかし、人々の目的はイエス様の目的からずれていました。イエス様はそんな時、人々の前に出るよりも一人になって祈ることをされることがありました。このことは私たちにとって、神様との交わりがいかに重要であるかを教えます。イエス様は神様でしたが、神様自体が三位一体の神であり、父、子、聖霊の3つの位格の間で常に交わりを持っておられる方です。私たち人間も神様と交わるために造られました。そして、神様との交わりの中にいるなら、見えるものに惑わされない揺るがない平安を手にするのです。
『ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言った。』(新約聖書
ルカによる福音書 5:17〜26)
信仰をもって生きていく時、私たちは必ず選択を迫られます。難しい状況の中であきらめるか、あきらめないのかという選択です。病人を連れてきた友人達はイエス様のところへ行こうにも大勢の人で前に進めませんでした。私たちも難しい状況を見てもしあきらめてしまうなら、信仰は必要ありません。自分ではどうしようもない状況が必ず来て、選択を迫られた時、「あきらめない」という選択をするなら、神様はその信仰を見て私たちに知恵を与えられます。友人達はあきらめず、屋根からつり降ろすという知恵が与えられました。もしあきらめていたらアイデアは与えられませんでした。私たちも「あきらめない」という選択をするなら、神様が助けて下さり、前に進むことができます。
友人達がそのようにして連れてきた病人に対し、イエス様は「あなたの罪は赦された」と言われました。イエス様は確かに友人達の信仰を見て彼らの期待を知っておられました。しかし、イエス様はすぐに病をいやすことはされず、まず罪を赦されました。私たちが忘れてはならないのは、神様がしたいことをされるということです。神様は私たちの信仰に答えて下さる方ですが、私たちのしもべではありません。すべてのことは神様が主体なのです。私たちがしてほしいことよりも、神様がしたいことをされます。
そして、神様が一番したかったこと、それは罪の赦しです。繰り返しになりますが、病のいやしは一時的です。神様が望んでおられるのは、私たちの一時的な幸せではなく、永続的な幸せであり、私たちが永遠のいのちを得るために罪を赦して下さったのです。私たちの祈りが無視されているのではなく、祈ったがゆえに神様は一番良い方向へ導いて下さっているのです。そのことを忘れてはいけません。ですから、祈って出た結果に対して絶対につぶやいてはいけません。その時は分からなくても必ず理解できる時が来ます。
「あなたの罪は赦された」と言うことと、「あなたの病はいやされた」と言うこと、どちらが簡単でしょうか。罪が赦しは目で見ることができませんが、病のいやしは目で見て確認できることが多いので、人の目からすると病のいやしの方が難しく思います。しかし、神の側からすると、病のいやしは簡単なことであり、むしろ罪を赦すことの方が大変なことでした。罪を赦すことは命がけのことだからです。罪のないイエス様が、十字架にかかってすべての人の罪の罰を引き受けて命を捨てなければならなかったからです。しかし、神様はこれをしてくださいました。
クリスチャンは簡単なことをしてもらえないからと言ってつぶやきますが、神様は最も難しいことをして下さっているのであり、それ以上の愛はないのです。イエス様はこの箇所で、病人の罪を赦した後、皆が神様を信じることができるように、人の目に難しく見える病のいやしもしてくださいました。これは、イエス様が罪を赦す権威を持っていることを悟らされるためでした。
私たちは神様から最高の愛をすでに与えられています。そして、この地上での問題の解決は、私たちの祈りに答えて神様が、私たちの小さな考えではなく、神様ご自身がしたいベストな方法で、必ずなされます。ですから、私たちはあきらめることなくこの方に信頼し、期待して進んでいきましょう。 |