『…さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。』(新約聖書 ルカによる福音書
2:40〜43)
マリアとヨセフは、家の方へ戻るまで、イエス様がいなくなったことに気付きませんでした。彼らにとって最も重要なつとめは救い主であるイエス様を育てることでした。それなのに、イエス様を見失いました。このことは私たちに何を言わんとしているのでしょうか。
私たちは日々の忙しさの中で、一番大切なものを見失い、そのことに気付かないでいないでしょうか?マリアとヨセフは、イエス様を育てる人として神様が選んだ人物でした。そのような人物でも見失うということは、誰もが見失ってしまうということです。
聖書は私たちに大切なものは何かを教えています。それは次のような順番になります。
1.神
私たちは、私たちを創られた神に日々礼拝を捧げ、感謝することが大切です。
2.家族
その中でも夫あるいは妻が子供よりも優先されます。結婚していない人にとっては、親にあたります。
3.仕事
私たちの生活の優先順位は入れ替わっていないでしょうか?もし、入れ替わっているのなら、聖書に照らし合わせ、軌道修正しましょう。
『イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。…』(新約聖書 ルカによる福音書
2:44〜47)
イエス様がいないことに気付き、慌てた両親は、イエス様を捜しにいきます。思いつく所全てを捜したが、イエス様は「見つからなかった」と書かれています。私たちもまた、自分のこれまでの経験、知識をもとに、正しい答えを捜そうとします。しかし、見つけられないでいるのではないでしょうか。
20世紀初頭、科学と宗教(キリスト教)は相反するものというのが通念でした。ダーウィンの進化論の影響で、科学が神の存在を否定していると認識されていたからです。しかし、進化論によって真理に到達することはできず、最新の科学はむしろ、聖書の正しさを説明する形になっています。(参考図書「それでも神は実在するのか?」リー・ストロベル著 いのちのことば社)そして、進化論の最高権威者が自ら進化論研究を手詰りとし、自分達の無知を露呈したと述べるに至ったのです。
生物はDNAという情報を持つことは今や周知の事実です。これは4つの文字からなるプログラムで、ある文法に基づいて書かれています。このことは何を意味するのでしょうか?文法、文字があるということは、それを書いた知的存在がいるということです。このプログラムが偶然に書かれるのは不可能です。一つの生物とまでいかなくても、生物のもととなる一つの細胞、そのもととなるアミノ酸が一つ自然に生成する確率は、ゴミ捨て場に竜巻が起こり、ジャンボ機ができる確率と同じだと言われます。つまり、あり得ないと言うことです。
遺伝子プログラムを書いた知的存在を、私たちは創造主なる神と呼びます。神がおられることは、調べれば必ず知ることができます。しかし、そのような過程を踏まなくとも、私たちが心を開きさえすれば、神を知ることができます。
『両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」』(新約聖書 ルカによる福音書
2:48〜49)
イエス様を捜していた両親は、ようやくイエス様を宮で見つけます。その時イエス様は、「私が家にいることを知らなかったのですか」と言われました。神の家とはどこでしょうか?
『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』(新約聖書 コリント人への第一の手紙 3:16)
神は私たちの心に住んでおられます。私たちはそのことに気付いていないだけです。別の箇所では、神は私たちの心をノックしておられると書かれています。それに答えてあけるかどうかが問題なのです。勇気をもって開けば、神がおられることを体験することができます。私たちが捜す答えは、どこか遠くにあるのではありません。神は私たちの心におられるのです。この神に心を開きましょう。必ず答えを見つけることができます。 |