『その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。・・・」』(新約聖書 ルカによる福音書
1:24〜33)
祈り願っていることが、いざ実際に目の前に起こると、戸惑い、恐れを感じることがあるのではないでしょうか。マリヤも神様の祝福を求めて祈っていたはずですが、御使いが現れて彼女を祝福すると、戸惑い、恐れました。そのことは御使いが「こわがることはない」と言っていることからも分かります。
御使いはザカリヤに対してと同じように、マリヤに対しても「こわがることはない」と、まず恐れを取り除こうとします。これは神様の私たちに対する基本的な関わり方です。神様は常に私たちの恐れを取り除き、励ましを与えようとされます。
御使いはマリヤに、彼女が救い主を産むことを告げ、そして名をイエスと付けるように言います。では、なぜ「イエス」という名を付けるようにされたのでしょうか。「イエス」とはヘブライ語の「ヨシュア」をギリシャ語読みで、「主は救い」という意味です。モーセの時代に、神様はご自分の名として4つの文字を示されました。神聖四文字と呼ばれるその文字は、読み方がはっきり分かりません。それは神様ご自身が、「神の名をみだりに唱えてはならない」と言われたからです。しかし、救い主がこの地上に来られるにあたって、私たちが呼んでもよい名前として「イエス」が与えられたのです。
イエス様は、ご自分のことを指して「エゴ・エイミ」と言われました。「在りて在る者」という意味のこの言葉は、神様がモーセに対してご自分を指して使われた言葉です。つまり、神以外に使うことの許されない言葉です。また、イエス様はご自分がアブラハムより前におられたとも言われました。このため、イエス様は自分を神とし、神を冒涜したとして、パリサイ人達から糾弾され、十字架に付けられたのです。
パリサイ人達をはじめユダヤ人達はみな、救い主が地上に来られるという預言を信じていました。しかしその救い主がイエス様であるとは信じませんでした。救い主についての預言は旧約聖書のあちこちに記されていますが、次の箇所もその一つです。
『神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」』(旧約聖書 創世記
3:14〜15)
蛇はサタン(悪魔)を表しています。この言葉の中に唐突に「彼」が出てきますが、これがイエス・キリスト(救い主)のことです。そしてこの記述は、十字架のことを表しています。こういった預言の通り、イエス様は地上に来られ、救いとなられたのです。
『そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」』(新約聖書 ルカによる福音書
1:34〜37)
マリヤは、御使いの言葉を聞いてまず、そんなことがあるわけないと、常識に立ってつぶやきました。ザカリヤと同じです。それに対し御使いが言ったのは、要約すれば「あなたを助ける」ということです。神様は恐い方ではなく、疑ってしまう私たちを励ます方なのです。
また、イエス様は「神の子」であると語られていますが、これは「神」であると語られているのと同じです。なぜなら、猿の子は猿、人の子は人であるのと同じように、神の子は神であるからです。それを「神の子は人」とするのがエホバの証人等の異端グループです。
御使いはさらに、いぶかしがるマリヤに対し、エリサベツに起こったことを思い起こさせています。マリヤもそれを知っていました。私たちはサンプルがあると、自分にもできるかもしれない、と励まされるものです。私たちに与えられた恵みは、私たちだけのものではなく、他の人たちが希望を持つために用いられることが分かります。
『マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。』(新約聖書 ルカによる福音書
1:38)
これらの励ましの言葉を聞き、マリヤは恐れや疑いから「分かりました。信じます。」という姿勢に変わりました。私たちも、疑いを持っても最後には信じ、マリヤと同じ言葉を言えるならそれでよいのです。
場面は変わり、マリヤがエリサベツのところを訪問した際、エリサベツが言った言葉です。
「…主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(新約聖書 ルカによる福音書
1:45)
人の能力では分からないことがいっぱいあります。科学も追究すればするほど、新しいことが分かると同時に、それ以上の分からないことが見つかり、きりがないことが分かってきました。創造主である神様が創られたものを被造物である人間がすべて理解することはできません。それよりも、大切なのは「信じること」です。信じられる時、人は幸せを感じるのです。 |