『あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 14:1〜4)
「信仰の弱い人たち」とは、古い習慣を引きずっている人たちのことであり、神様への信頼が弱いという意味ではありません。私たちはみな律法によるものの見方をして生きてきました。それが救われた瞬間に変わるはずはなく、徐々に神様の見方へとシフトしていくのです。ですから、古い習慣が残っているからといって、お互いにさばいてはいけないと書かれています。
この後にさばいてはいけない理由が書かれています。
1.それぞれ確信を持って生きるべきだから(5節)
私たちはこれまで、人から評価を得るために良い行いをしてきました。しかしそれは偽物の生き方です。私たちは行いとは関係なしに神の恵みによって救われました。これからは、人の評価のためではなく、神の前に自立して、神と向き合って、いただいた確信に従って自発的に行動するべきです。それが本物の生き方です。
2.感謝して行動しているから
人が感謝してやっていることにとやかく言う必要はありません。自分も何事も感謝してやる必要があります。
3.主のために生きているから
私たちはそれぞれ主のために生きているのですから、お互いにさばいてはいけません。大切なのは習慣ではなく、生きる目的です。この認識が欠けるとさばき合うことになってしまいます。
4.さばくのは神の仕事だから
人と神の間に、他の人が介入してはなりません。一人一人が自分と神との関係の中で問題を解決していくのです。
5.自らに厳しくすべきだから
人はさばきやすいものです。ですから、なるべく人のつまずきにならないように気をつけて行動するべきです。さばかれないからといって何をしてもいいというわけではありません。
「さばいてはならない」というテーマに関するページは聖書の中に多く登場します。それは、人間の心にとってさばくことが最も危険なものだからです。さばくと心は病んでいきます。神様はアダムとエバに「善悪を知る木の実を食べてはならない」と言われました。それは、人が勝手に善悪を判断するとさばくようになるからです。さばくことが人の心に何をもたらすか、神様はご存じでした。だから、食べてはならないと言われたのです。
さばくこと=比較することです。比較するとは、律法のものの見方をすることです。比較がなければ、争いも起こりません。比較することはただ人の心を争いで満たすだけです。神から来る喜びで満たされることが、平和をもたらし、心の霊的成長をもたらします。それに役立つのは、御言葉、賛美、祈りです。
『そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。』(新約聖書 ローマ人への手紙 14:19) |