『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:17)
この御言葉をよく表すエピソードが、福音書に記されています。
『…ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。』(新約聖書 マタイによる福音書 8:2〜10)
イエス様は百人隊長の信仰に対して驚かれました。ここでの「驚く」は感動するとも訳される言葉です。イエス様がこのように感動された場面というのは、他には見られません。イエス様は彼の信仰を「りっぱな信仰」と言われました。
では、りっぱな信仰とはどういう信仰なのでしょうか。
1. 神のことばを求める
神がくださるのは、みことばです。それは種のようなもので、人はそれを受け取り、自分で育てる必要があります。そこで忍耐が養われます。しかし多くの人は、すでにできあがった作物、つまり結果を求めてしまいます。
彼は種である御言葉だけを求めました。
2. 神のことばに権威があることを知っている
なぜ御言葉が重要なのかというと、それは神の権威そのものだからです。
車と警察官では、車の方が力があります。しかし、警察官が指示を出すと車はそれに従って止まります。それは警察官に権威があるからです。ましてや神の権威はどれほどのものでしょうか。彼は自らも権威を持つものであり、権威の意味を理解していました。すべてが神のことばに従うのです。私たちはその神のことばをいただけるのです。
3. 聞く態度が優れている
彼は自らイエス様のもとに出向くのを失礼と思い、使いを遣わし、また、自分の家に出向いていただくことも申し訳ないという思いで、ただおことばをいただきたいと願い出ました。神の前に非常に謙遜であることが分かります。
神の前に謙遜であるかは、私たちの日々の生活態度を反映します。目に見える兄弟を愛せない者は、目に見えない神を愛することができないと聖書にありますが、私たちは家族や周りの人の言うことを聞き、理解しようとしているでしょうか。まずは夫婦、親子の間から、お互いの言っていることをよく聞き、理解するよう努めていきましょう。 |