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2005年2月13日 礼拝メッセージ
十字架の死について
(新約聖書 ローマ人への手紙 6章より)

行いによって救われるという律法主義に対して、パウロが恵みによる救いを説いたのは、当時の常識からは、受け入れがたいことでした。そのため、何をしても赦されるなら、恵みに甘んじて、人々の生活は乱れるのではないかという批判がありました。しかし恵みを正しく理解するなら、そうはならないということをパウロはこの章の中で説明しています。


『それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:1,2)


罪に対して死んだとは、もう罪を犯さなくなったということではなく、罪を問われなくなったということです。なぜ罪を問われなくなったのでしょうか。


『・・・キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:3,4)


キリストの死は、私たちの身代わりの死でした。つまり、私たちの死を意味します。その死の目的は、私たちの罪を赦し、天国へ行けるようにするためだけでなく、今、地上において古い生き方から解放されて新しい歩みをしていくためでした。


『私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:6〜10)


私たちの肉体(罪のからだ)は滅びます。しかし、ほんとうのいのちは、滅んでいく肉体にあるのではなく、神によって新しくされたたましいにあります。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、すでにたましいを新しくされているので、罪によって支配されることはもはやないのです。


『このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:11)


しかし、実際の自分を見ると変わっていないと思い、失望してはいないでしょうか?神様もそのことをご存じです。ですから、私たちの気持ちが負けてしまわないように、11節で、「・・・と思いなさい。」と書いているのです。実は、私たちが変わっていくのを最も妨げているのは、私たちの気持ちです。ですから、気持ちで負けてしまったら、私たちはそれに支配されてしまうのです。


ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:12〜14)


恵みは私たちの生活をほんとうにきよくします。私たちは罪に支配される生活を送り、苦しんでいました。私たちが様々な欲望によって罪を犯すのは、根底に「愛されたい」という思いがあるからです。しかし、イエス・キリストの十字架、復活、それらの神の恵みをほんとうに知ったとき、神の愛を知り、「愛されたい」という満たされない思い、それに伴う罪の行動から解放されます。神様は私たちを責めているのではなく、助けたいのです。これらは励ましのメッセージです。


『あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:16〜18)


義の奴隷とは、言い換えれば、キリストにつなぎ合わされている、キリストのからだの一部になっているということです。もはや罪に支配されているのではなく、恵みに支配されているのです。


『・・・あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:19〜23)


行いによって救われるという考えの行き着くところは死です。なぜなら、誰一人完全な行いなどできず、すべての人は罪を犯しており、罪の報酬は死であるからです。しかし、神様は行いではなく恵みによって私たちを救ってくださいました。私たちは最もほしかったものを手にしています。ですから、もう点数を気にせず、神様からいただいたたまものを用いて神様に喜ばれることをやっていけばよいのです。


私たちは古い習慣によって、自分はだめだと思い、気持ちで負けてしまっています。本当はもう神様が私たちを新しくしているのに、自分はだめだと思いこんでいます。神様からすると、それは実にもったいないことです。新しい歩みをするために、神様が私たちを恵みの世界に入れてくださったことを信じ、神様に喜ばれる生き方へと進んでいきましょう。



神木イエス・キリスト教会


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