『ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:1〜5)
神様は私たちを義としてくださいました。「義とする」とは、天国に行けるようにしてくださったということです。罪を持ったままでは天国に入ることはできません。しかし、私たちがイエス・キリストを信じたので、神様は私たちの罪をすべて赦してくださいました。私たちには自分の罪を償うことができませんでしたが、ただひとり罪のない方であるイエス・キリストが私たちの身代わりとなって罪の罰を受けられ、それによって私たちは赦され、「義」と認められたのです。
「義」とされた私たちの立場はどういうものなのか、この箇所に示されています。
- 神様との間に平和を持っている
- 一人ではなく、神様とともにいるから安全
- 神様の栄光(神様のされること)を経験する(見ることができる)
- 今も栄光を経験している。患難は必ず希望に変わる。
私たちの立場はこのように素晴らしいものであることが分かります。見える状況はつらく悲しい時もあります。しかし、神様はいつでも私たちに語っておられます。「恐れてはならない、あきらめてはならない、わたしがともにいるから。つぶやいてはならない、神の栄光を見るから。」
5節に神の愛が私たちの心に注がれているとあります。しかし、私たちは時に神様に対してこう言わないでしょうか?「神様、あなたは本当にわたしを愛しておられるのですか?」「私を愛しておられるなら、どうしてこういうことが起こるのですか?」私たちが神様に対してこういった疑いや不平不満を持つのは、神様の愛を勝手に決めているからです。「私を愛しておられるのなら、こうしてくれるはずだ、こうしてくれないのは私のことをどうでもいいと思っているからだ。・・・」自分の要求が通らないということは、神様に愛されていないから・・・本当にそうでしょうか?
『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:6〜8)
神様はいつでも私たちを幸せにすることを考えておられます。ですから、私たちが本当に求めているものを与えてくださいました。それは、罪の赦し、永遠のいのちです。私たちが死ぬとき、何を持っていけるでしょうか?財産も、名誉も、権力も、何の役にも立ちません。私たちが持っていけるのは永遠のいのちだけです。そのためにイエス様は十字架にかかり、命を捨てられました。それ以上の愛があるでしょうか。神様以外の誰もそれを与えることはできません。
それほどまでに愛されていることを、多くの人は実感していません。愛されていないと思っているから、常に不安があります。だから見えるものを得ることで不安を消そうとし、そのことでいらだちます。神様は私たちを愛していますが、私たちにはその愛が見えていません。そして、見えなくしているのは他ならぬ私たち自身です。
神様に愛されていることが分からなくなってしまったなら、十字架を見上げ、その意味を思い出しましょう。この十字架は何のためだったのか。誰のためにイエス様は十字架にかかられたのか。私たちが求めている愛は、ここにしかありません。疑う余地なく、神様は私たちを愛しておられます。 |