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2005年1月16日 礼拝メッセージ
信仰による義認
(新約聖書 ローマ人への手紙3章より)

2章では、割礼を受けているかといった外見がユダヤ人であれば、その人に信仰があるのではなく、見えないところで神に従っている人を神が認めておられることが、最後に書かれていました。つまり、見えるところではなく、本質を見る必要があるということです。それを受けて3章には、キリスト教の中心となる教えが書かれています。


『では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。…それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。では、…彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:1〜4)


ユダヤ人たちは自分たちだけが神に選ばれ、救われる者であると自負していました。しかしパウロはそうではないということをこれまで述べてきました。ではユダヤ人はどんな役割を果たしたのかというと、彼らは旧約聖書の言葉を一字一句間違わず、正確に後世に伝えてきました。「おことばをゆだねられている」とはそういう意味です。しかし、そのユダヤ人たちが神の言葉に従っていなかったら、それで御言葉が無意味になることはありません。御言葉は人によって影響を受けません。


『しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:5,6)


彼らは、行いを守ることによって救われると信じ、様々な教えを取り決め、守るようにしました。聖書の教えとは正反対のことを信じ、自分たちの教えを作った彼らの不信仰によっても、神様の真実が無になるわけではありません。また、ローマ帝国はキリスト教を徹底的に迫害しました。しかしこれらのことが逆に全世界にキリスト教が広まるという結果をもたらしました。だからといって不信仰がよかったわけではありません。


『でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。(私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが)、もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:7,8)


行いではなく信仰で救われるというのなら、大いに悪を行えばよい、そうすれば罪が赦され、神の愛が示されるのだから…。当時、そのような反論がありました。しかし、パウロはその考えも間違っていることを指摘しています。

『では、…私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。…「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:9〜12)


ここにキリスト教の本質が書かれています。すべての人が罪の下にある。人は見かけで素晴らしいとか良くないとか判断します。しかし、神様の前には、罪人かそうでないかしかありません。


『さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:19,20)


善を行えば罪赦される、これは律法の考え方です。しかし、神様が思う善はもっと高いレベルです。人は善を行おうとすればするほど、自分にはできないことが分かるのです。例えば、「敵を愛する」ことが私たちにどれだけできるでしょうか。表面的にではなく、心から愛するのです。どの御言葉をとっても、完全にそれを守ることは私たちにとって本当に難しいことです。


『しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:21〜24)


神様は私たちのために、行いによる救いとは別の救いの道を用意してくださいました。それは信じる者すべてに与えられる救いです。それは、努力の結果与えられる報酬ではなく、努力なしに一方的に与えられる恵みなのです。


『人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:28)


これがキリスト教の中心となる教えです。行いによって救われるとしたら、人は自分を誇るでしょう。しかし、人は神によって造られ、生かされている存在であり、誇れることなどないのです。また、神様はすべての人にとっての神様であり、ユダヤ人だけの神様ではありません。


『それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:31)


ここでの律法は旧約聖書を指しています。信仰による救いによって、旧約聖書が無効になるのでしょうか。そうではなく、むしろ旧約聖書がより分かるようになるのです。旧約聖書に書かれているのは、行いによる救いではなく、信仰による救いです。聖書の教えはシンプルです。救いは、私たちがイエス・キリストを信じる、ただそれだけで与えられるものです。それを複雑に考えようとすると、本質からずれてしまうのです。自分の行いを誇ろうとすることをやめ、神様の前にへりくだって救いの恵みに預かっていきましょう。



神木イエス・キリスト教会


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