メッセージ集TOPへ
2005年1月9日 礼拝メッセージ
つらくなる理由
(新約聖書 ローマ人への手紙2章より)

『ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:1,2)


「さばく」とは、「罪に定める」ことであり、「だめと決めつける」ことです。キリストの体の一部である私たちがお互いをさばくということは、「キリストの体の一部としてみない」ことであり、それは比較することから生じています。キリストの身体の各部はもともと異なるように造られていて、比較することなどできません。それなのに、行いがどれだけできるか(律法の見方)で人を判断し、その結果さばくのです。つまり、さばくとは、律法の見方をしているということであり、神様の忌み嫌う行為なのです。


この行為の結果、私たちは神にさばかれ、心がつらくなります。私たちは自分の心がつらくなるのは、人が自分に対してした行為が原因だと思いがちですが、それは間違いです。
つらくなる原因は、他人の行為に対する自分の反応が神様のみこころに反しているためです。他人から何かをされたとき、その人をさばくことは神様の御心に反しているのです。
ですから、つらくなる原因は、自分自身にあります。人をさばくと平安がなくなり、心がつらくなるように私たちは造られています。


『そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:3,4)


神さまはさばいた者を悔い改めへ導き、赦しを与えようとしておられます。つらいのは神様からのサインです。悔い改めればつらさは消え、楽になります。ですから、自分のつらい原因を正しく知る必要があります。つらい原因は、神さまの意に反し、さばいているからです。


5節には、「かたくなさと悔い改めのない心により、・・・御怒りを自分のために積み上げている」とありますが、かたくなな人とは、神様を認めない人のことです。1章で見たように、クリスチャンであっても、神様より大事なものを持ち、その結果、神様からずれている人のことです。


『神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:6〜10)


神様はすべての人に平等に報います。7,8節は終わりの時のことを書いています。善を行い、神様を求める者には、永遠のいのちを与え、自己中心で、真の神様を認めない者には、永遠のさばきを与えます。9,10節では現在のことが書かれています。クリスチャンであろうとなかろうと、悪を行う者の上には苦しみがあり、善を行う者の上には、平和があります。


『律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。・・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。』 (新約聖書 ローマ人への手紙 2:12〜15)


ここでの律法とは、旧約聖書のことです。律法を教えられた上で罪を犯せば、律法によって罪に定められます。しかし、律法を知らない人にとっては、自分の良心が律法であり、良心によってさばかれます。ですから、すべての人が罪を犯せばその結果つらくなるのです。


『もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、・・・律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手・・・だと自任しているのなら、どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。・・・律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:17〜28)


ユダヤ人は、律法を持つのは自分たちだけであり、自分たちこそ選ばれた者、人々を導く者だという自負がありました。また、教えに従って割礼を受けているということに安住し、自分自身の行動を顧みることをしていませんでした。パウロはそれを指摘しています。旧約聖書を知らなくても、すべての人の心には神様から与えられた良心があり、それに従って、良い行いができる人がいます。神様はその人の実をごらんになります。律法を知っている知っていない、割礼を受けている受けていないといった外見上のことで人を判断するのはすべて律法の見方です。これは、私たちクリスチャンのことを言っています。


『かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:29)


神様は、律法の見方ではなく、恵みによって、本質を見ます。神様が見るのは、見えるところではなく、人目に隠れたところ、神に従う心です。終わりの時にそれは明らかにされ、その人に神様からの誉れが来ます。私たちの心がつらいのは、さばいているためであり、それは律法の見方をしているからです。そのことに気づき、悔い改めて、本質によってものを見ることができるよう、求めていきましょう。



神木イエス・キリスト教会


神奈川県横浜市青葉区新石川4-22-7
電話:045-914-5455 ファックス:045-914-5508
Email:info@shiboku.net

| HOME | 教会紹介 | 集会案内 | 会堂紹介 | 地図 | メッセージ集 | NOAHの活動 | ENGLISH |