『御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。』(新約聖書 ローマ人への手紙
1:2〜4)
御子とはイエス・キリストのことです。人は肉体とたましいから成っています。イエス・キリストはたましいにおいて神ご自身ですが、聖書の預言通り、人としての肉体を持ってダビデの子孫としてこの地上に来られました。「イエス」はこの地上で付けられた名前で、キリストは救い主の意味です。ですから、主イエス・キリストと呼ぶのは、イエス様が神様であり、救い主であるという意味です。
『まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙
1:8)
パウロが神に感謝しているのは、ローマの人々の信仰のことでした。ローマの人々が何か立派なことをしていたからではありません。これは神様の見方でもあります。神様は私たちのことを行いの物差しではなく、信仰の物差しでごらんになります。
『・・・あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙
1:12)
クリスチャンにとっての励ましは、世の励ましとは違います。それは一時的な気休めではなく、信仰による励ましです。聖書になんと書いてあるか、その御言葉を通して受ける励ましが真に私たちを力づけるのです。
多くの人が「自分は愛されていない、必要とされていない」と思い悩みます。しかし、聖書を通して見るなら、「自分は神に愛されている」という説明しかできません。ですから、悩むのは、事実によってではなく、自分の勝手な思いこみによるものです。聖書を通して、「自分は神に愛されている」という神様のメッセージを受け止めることが信仰です。
『私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:14,15)
パウロがここで言う「負債」とは罪のことではありません。すべての罪は赦されているからです。パウロ「負債」と言っているのは、彼が神に対してどうしてもせずにはいられないことであり、具体的には「福音を伝える務め」です。あなたの人生の目的は何かと問われたら、どう答えるでしょうか。パウロは「福音」だと即答します。
『なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:17)
救いは、立派な行いとは関係ありません。ただ神様を認め信じることだけによります。このことは重要です。
『なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:19,20)
神様の存在は、被造物によって明らかだとあります。それはこういうことです。ここに何か製品があるということは、それを作った人がいる証拠です。作った人がそこにいなくても、その人が存在することは明らかです。その製品が進化してできたという人は誰もいません。この地上には人も含め、多くの生き物がいます。それらは人間が作り得るどんなものよりも複雑で、何よりも命があります。人間にはどうやっても命を作ることはできません。
人は遺伝子によって書かれていることが明らかになっています。それは誰かが明確な意志を持って書いたプログラムです。それが進化して偶然にできたとすることがいかにナンセンスであるか分かるでしょう。生き物は、明らかに神様によって造られたのです。作品を見れば、作り手のレベルも分かります。人間という素晴らしい生き物を造った方がどんなに素晴らしいか、想像できないでしょうか。
ですから、神様が見えないからといって、神様の存在を否定することはできません。どの時代の人々も、神様が造られたものによって、神様の存在を知ることができるようになっているのです。むかしから、神様が造ったものを神様として拝む「偶像礼拝」がありました。しかし、すべてを造られた神様を認め、偶像礼拝をしない人たちもいました。神様は被造物ではなく、はじめから存在しています。
私たちは、すべての始まりや終わりを理解することはできません。私たちの能力には限りがあるからです。ですから、理解できないからと言って否定することもまたナンセンスです。しかし、神様は神様のことを理解できる道を用意してくださいました。それは愛です。愛されていることは、理屈抜きに分かるものです。私たちが本音で神様にぶつかるとき、自分の罪を思い神様に助けを求めるとき、神様の愛は必ず分かります。
『彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。・・・それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。・・・また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。・・・。』(新約聖書 ローマ人への手紙
1:21〜31)
神様を知っていながら、神様を認めない者は、神様からどんどんずれていきます。これはクリスチャンに対する手紙です。クリスチャンであっても、神様を信じていながら神様よりも大事なものを持つと、心も体も苦しくなります。心の中は、悪い欲望の中で自由になり、いろいろな悪い思いによって苦しくなります。そういった苦しみは、神様からずれているためです。私たちの心はいつも見えない偶像礼拝の危険にさらされています。私たちの目が神様からずれていないか、それは福音が私たちの人生の中心にあるかどうかであるとも言えます。私たちが神様を中心に生きる、つまり福音のために生きる時、神様は私たちの心と体を守ってくださいます。 |