『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
12:1)
ここでは信仰を競走(「競争」ではなく「競走」)にたとえています。競走をするときは、身軽にならなければ走れません。「いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて」と書かれているように、私たちはこれらのものを捨てる必要があります。
では、私たちの重荷とまつわりつく罪について具体的に見ていきましょう。まず、重荷とは何でしょうか。私たちは次の3つの重荷を持っています。
1. 過去のつらかった感情
赤ちゃんの心はまん丸で傷のないものです。しかし、親や人との交わりを通し、その心にはいろいろな形の傷が付いていきます。成長すると、調子が悪いときは、人からの言葉が、その傷にぐさっと入って、落ち込んでしまいます。人が謝ってくれることによって、あるいはカウンセリングなどによって、傷に入ったものをとることはできます。しかし、傷がある限り、またいろんなものがそこに入ってしまいます。
問題なのは、人の言葉ではなく、傷があることです。多くの人は、人の言葉といった、外側から入ってくるものが問題だと思い、傷に入ったものを取り出すことに集中しますが、それでは同じことを繰り返すだけです。心に付いている傷、これをなくすことを求める必要があります。それは神様にしかできないことです。ですから、私たちは、自分に傷があることを認識し、自分の意志で神様に癒しを求めましょう。
2. 現在のつらい状況
3. 将来の不安
現在のつらい状況、それが将来への不安にもつながるかもしれません。しかし、それを神様は委ねなさいと言われます。
この3つの中で、一番捨てるのが難しいのは過去のつらかった感情です。しかし、神様はどんなにつらかったことも益に変えると言われます。
では、まつわりつく罪とは何でしょうか。それは、私たちの信仰を妨げようとするものです。たとえば、お金に執着すること、権力の誘惑、といった世の心遣いです。人それぞれ違ってくるでしょう。
『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
12:2,3)
2節からは、走り方の注意が以下のように書いてあります。
1. イエス様から目を離さない
信仰の創始者とはつまり、私たちに信仰の種をくださったということです。私たちはイエス様によって罪赦され、永遠のいのちを与えられ、そこからスタートしました。それだけではなくイエス様は信仰の完成者である方です。スタートがイエス様なら、ゴールもイエス様でなければなりません。異端と呼ばれる人たちは、スタートはイエス様だったかもしれませんが、ゴールを間違えてしまいました。完成者が人になってしまったのです。私たちは決してゴールを間違えないようにしましょう。そのために礼拝を守ることは基本となります。
2. 私たちの前に喜びが置かれている
神様は私たちのために喜びを用意してくださっています。私たちは一人で走っているのではなく、聖霊様がともに走ってくださっています。
3. イエス様の苦しみを思う
イエス様は私たちの罪のために十字架の苦しみを受けられ、それゆえに、私たちの苦しみを理解することができる方です。
『あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:4)
日本ではクリスチャンだからといって命をねらわれるような迫害をされことはありませんが、信仰を揺るがされることにであうことはあります。たとえば、女性の場合、クリスチャンではない男性とおつきあいをし結婚することになると、多くの男性が教会をやめるよう強要してきます。その結果、教会をやめてしまうケースがよく見られます。
信仰を揺るがされる出来事に出会うとき、私たちは戦うという道を選択しましょう。女性の場合は、結婚前は主導権を握ることができます。信仰を一歩も譲らず、伝道し、相手の男性がクリスチャンになったケースも多く見られます。
私たちはともに励まし合い、最後まで信仰の完成者であるイエス様から目を離さず、競走を走り抜いていきましょう。 |