『・・・キリストは、・・・こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」(新約聖書 ヘブル人への手紙
10:5〜7)
人々が律法(よい行い)を行う動機は、いつしか自分がほめられること、人や神から認めてもらうことになっていました。しかし、どんなによい行いを積んでも、思うように手に入れることはできませんでした。ここに、神様は「いけにえやささげものを望まない」、「いけにえで満足されない」と書かれています。神様は、形だけになった行いによってではなく、イエス・キリストによって罪ゆるされ、神に近づく道を与えてくださいました。
神様はこのご計画に従って、イエス・キリストに体を与え、罪のためのいけにえとされました。ですから、もはや私たちは神に赦され、受け入れられるために、いけにえを捧げる必要はありません。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに死んでくださったことを信じるだけで、私たちは赦され、受け入れられています。
『このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:10)
イエス・キリストのあがないは完全ですから、完全なあがないによって赦された私たちは、もうきよい者とされています。それは、私たちがもはや罪を犯さないということではありません。この地上に生きている限り、私たちは毎日罪を犯してしまいます。(いわゆる犯罪ではなく、心の中で文句を言ったり、悪いことを考えることも神様の前には罪です。
ヨハネ13章にイエス様が弟子たちの足を洗う場面があります。ペテロは最初、イエス様に恐縮して、足を洗わないでくださいと言いますが、イエス様から「わたしが足を洗わなければあなたとは何の関係もない」と言われると、「足だけでなく頭も洗ってください」と言いました。するとイエス様は「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」と言われました。水浴したというのは、イエス様を信じた人のことです。その人はイエス様によって全身きよいが、足だけは毎日の生活の中で汚れる、つまり、罪を犯すので、そのたびに悔い改める必要があるということを言っているのです。
『ですから、罪を犯したら天国へ行けないのではありません。イエス・キリストを自分の救い主として信じる人は、行いに関係なく天国へ行けるのです。それが神様が用意された計画です。そして、神様はこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:17)
『こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:19〜20)
イエス・キリストは、私たちが神様と形式ではなく生きた交わりをする道となってくださいました。そして、いつも私たちとともにいて、永遠に変わることのない祭司としてとりなし続けてくださっています。「インマヌエル=神は私たちとともにおられる」そう認めるなら、神様はそうしてくださいます。昔は大祭司が年に一度しか神に会えませんでした。しかし今は24時間いつでも誰でも神様と交わることができるのです。これはなんと素晴らしい恵みでしょうか。
『・・・私たちは・・・全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
10:21)
全き信仰をもって、とは、確信を持ってということです。神様の言葉に対して疑うことがあるかもしれません。自分が赦されているのか、自分を責める思いも神様の言葉への疑いです。しかし、自分がどう思っても、神様の言葉は間違いないと信じる努力が必要です。聖書の言葉は書かれてから今まで一度も書き直されたことはありません。
『約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
10:23〜25)
私たちの希望とは、私たちは神様によって罪赦され、救われて天国へ行けること、神様に愛されていることです。また、私たちは一人では弱く、励まし合うことが必要です。ですから、そのためにも礼拝等の集会や奉仕に参加することは重要です。
『もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:26〜29)
真理の知識とは、イエス・キリストの十字架のあがないのことです。この手紙を受け取ったヘブル人たちは、イエス・キリストの十字架のあがないを知りながら、まだいけにえを捧げていました。良い行いによって救われるという認識がまだ根強く残っていて、人々は昔の習慣をそのまま続けていたのです。しかし、それはイエス・キリストの十字架を無意味であり、不完全だと言っているのと同じことです。パウロはその罪を指摘しているのです。
イエス・キリストのあがないは人の捧げるいけにえとは違い、完全です。ですから、もういけにえを捧げる必要はないのです。昔は律法を無視する者は律法によって裁かれました。ましてやイエス・キリストのあがないを無視した者は当然さばきを受けます。これはイエス様を信じながらもまだ、良い行いによって救われようとすることへの警告です。
『あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:32)
『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:35)
そういうわけで、この手紙が書かれた当時、クリスチャンは外側にはローマ皇帝による弾圧、内には恵みの教えに反対し、律法を守ることを至上とする人たちからの圧力がありました。そんな彼らに対し、パウロはイエス・キリストによってあがなわれた確信を絶対に捨ててはならないと訴えているのです。
『あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:36〜39)
私たちは、決してこの確信を捨てることなく、行いによってではなく、信仰によって生きる者として歩んでいきましょう。 |