この章では、律法に定められた礼拝規定について書かれています。この手紙を受け取ったヘブル人たちは、この礼拝規定を守ってきた人たちです。
『この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
9:9)
ここでパウロは、それらの規定を守ることによって、行いは立派になっても良心を変えることはできなかったと言っています。儀式は本音を隠すことができます。例えば私達にとって身近な儀式として葬儀を考えると分かりやすいと思いますが、儀式の決まりさえ守っていれば、私達の感情がどうであろうと良しとされるのです。
礼拝規定では、礼拝のために設けられた幕屋で、祭司たちがいつも礼拝を行い、年に1回幕屋の奥に設けられた至聖所に必ずいけにえを携えて入り、自分と人々の罪のために神に捧げました。これは、後に本物が来るための比喩であり、模型です。(10節,24節)後に来る本物とは、イエス・キリストのあがないです。
『しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
9:11,12)
幕屋で行なわれていた礼拝も葬儀と同様、形さえ守っていればよかったのでした。ですから、行いを立派にしても、良心を清めることはできませんでした。しかし、イエス・キリストが私達の罪を赦すために、ただ一度、いけにえによってではなくご自分の命を捧げた、そのあがないは完全であり、私達の良心を変える力があります。
『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
9:14)
良心をきよめるとは、どういうことでしょう。それは、死んだ行い、すなわちいのちがない行いをやめ、心から神を愛するように変えられることです。神様が問題にするのは、行いではなく心です。いのちがなければ、礼拝を行なっても意味がありません。教えを守っても心がなければ意味がありません。
キリストがご自分を捧げられたということは、いけにえが捧げられることより、もっと意味の深いことです。私達の心は、人と交わるとき心にあるコップの水を使います。空っぽになると誰かから(子供の場合親から)入れてもらおうとします。ですから、水をくれる人の言うことを聞き、愛します。ですから子供は親の言うことを聞きます。しかし、人間同士ではコップの水を100%満たすことができず、それは神様にしかできないことです。そのことに気づいたなら、その人は神様を愛するようになるでしょう。まことの平安、尽きることのない水が必要だと知ったら、必死に探すでしょう。
『しかし、わたしが与える水を飲むものはだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』(新約聖書 ヨハネによる福音書 4:14)
人からのものを受けることに慣れた私達は神様からのものを受けることに最初は慣れないでしょう。しかし、少しずつ慣れてゆきます。時間はかかっても、神様は私達の心を必ず変えてくださり、問題にぶつかっても平安を持つことができるようになります。 |