『ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
2:1)
私たちの信仰を押し流すものとは、目や耳などから入る情報です。この手紙が書かれた当時は、電話もなく、交通の便もなく、外からの情報はほとんどない状態でした。そんな中でさえ、押し流されないようにと注意が書かれています。
何気なく過ごしている中で、私たちはふとしたことから押し流される危険があるということです。ましてや今の私たちは情報の洪水の中で暮らしています。自ら情報をコントロールしなければ、神様の言葉は私たちの中で限りなく薄くなってしまい、信仰も押し流され、行動の伴わないクリスチャンとなってしまいます。
『私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
2:3,4)
宗教は、罪責感を消すために生まれました。キリスト教以外の宗教は、何か良いこと、何かの行いをすればゆるされ、救われるという教えです。しかし、イエス・キリストが与えてくださったのは、行いによる救いではなく、イエス・キリストを信じる信仰による救いです。イエス・キリストを信じるだけで、罪が赦され、天国へ行けるという教えです。「こんなにすばらしい救い」を私たちは与えられているのです。「聖霊」という言葉が出てきますが、聖霊様も父なる神様、イエス・キリストとともに神である方です。
『神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
2:5〜8)
6節からは詩篇の引用です。神様は御使いに世の中を支配させることはしなかったとあります。では、任されているのは誰なのでしょうか。「人の子」とはいつも救い主を指して書かれています。つまり、救い主であるイエス・キリストの下に万物が従わせられたとあります。ここからもイエス・キリストは御使いとは違う存在であり、神であるということが分かります。
『ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
2:9,10)
イエス・キリストはすべての人を救うために身代わりとなって、すべての人の罪の罰を受け、死の苦しみを味わいました。イエス・キリストは救いの創始者です。また、万物の存在の目的であり、原因である方と書かれています。これはものすごいことです。宇宙はビッグバンによって始まり、その後混沌とした時代があるというのが、科学者たちの一致した見解です。これは、創世記の記述と同じです。しかし、科学者は宇宙が始まった原因については答えを出していません。ホーキンス博士は、誰かがボールを転がすことをしなければ、宇宙は始まらないと言っています。聖書では、神がはじめであると言っています。万物の原因である、宇宙を創った方が、あなたのいのちも支えておられるのです。その方が、あなたの問題を解決できないことないのです。
『聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
2:11〜17)
『主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙
2:18)
イエス様は、血と肉を持った人としてこの地上に送られました。その目的は、人々を罪から解放するためでした。祭司とは、とりなしをする人のことです。イエス・キリストは大祭司となられたとあります。人であり私たちの苦しみを体験し、理解した方が、私たちの罪を赦し、苦しみから助け出してくださいます。イエス・キリストは私たちから遠く離れている方ではありません。イエス・キリストは別名インマヌエルと呼ばれます。
その意味は、神は私たちとともにおられる。私たちの苦しみを理解し、ともに生きてくださる方に心を向けて、生きていきましょう。 |