この手紙に、オネシモという人物の話が出てきますが、彼はもともとピレモンの奴隷でした。ところが、何かの罪(おそらくピレモンに対する罪)により、捕らえられ、牢獄へ送られます。そこでパウロと出会い、改心したことが書かれています。
パウロはピレモンに宛てたこの手紙で、オネシモは以前はピレモンにとって役に立たない者であったが、悔い改めて神様に作り変えられ、今は自分の心そのものとまで言うほどに変えられたと書き送っています。
人はみな欠点を持っています。しかし、その欠点は、神様によりすばらしいものへと変えられることが、ここに示されています。欠点には長所になる要素があるというのは、面白いことです。そのように人を見ることができれば、欠点を見て嫌うのではなく、欠点がどのように作り変えられているのだろうと、希望を持つことができます。実態は同じでも、見方を変えれば全く違うものに見えるのです。
しかし、多くの場合、私たちは否定的な見方をしてしまいます。それは、私たちが幼い時に書いた人生脚本によるものです。
少し、カウンセリング的な話になります。シンデレラといった幼い時に読むおとぎ話というのは、たいてい幸せを手に入れるために苦労しなければならないストーリーです。これがそのままインプットされると、自分の人生を被害者として組み立てる脚本を書き、それを演じてしまいます。年をとるほど、その脚本が明確に現れ、自分の世界に閉じこもってしまいます。否定的なものの見方はこの人生脚本のせいです。脚本を書き換えていく必要があります。
ところが、脚本を演じていることに、自分ではなかなか気づくことができません。それでは、どうやって脚本を書き換えればよいのでしょうか
実は、心がつらくなった時が、脚本を書き換えるチャンスなのです。否定的なものの見方をすれば、心はつらくなります。否定的なものの見方、いわば間違ったフィルターを、聖書と照らし合わせ、その間違いに気づき、悔い改めて聖書の見方に脚本を書き直すことによって、軌道修正されるのです。
次に、14節には神様は私たちが自発的に奉仕することを望んでいるとあります。マインドコントロールのように強制されてやることは望んでおられません。ここで、パウロはピレモンに、大きなチャレンジを勧めています。それは、彼に対して罪を犯して牢に追われた奴隷オネシモをゆるし、兄弟として受け入れるということです。当時の社会常識では、主人のもとを逃げた奴隷は必ず処刑されなければならず、もしピレモンが彼を処刑せず、しかも兄弟として受け入れたとなれば、迫害を受けることも考えられました。それをあえて、パウロはピレモンがこのことを自発的に行なうように望んだのです。
ここで神様が私たちに語られているのは「愛による解決はありませんか?」ということです。私たちを取り巻く人間関係の問題において、世の中の常識では、何か悪いことをされたら、その仕返し、あるいは罰を与えます。それはさらなる争いを招くだけです。しかし、神様は、私たちがもう一つの道である「愛による解決」を選ぶよう、求めておられるのです。パウロはオネシモに負債があるのならば、それは自分が支払うから、彼をゆるしてほしいとピレモンに求めました。これは、イエス・キリストが私たちの罪のために自らを死に渡したのと同じです。つまり、イエス・キリストの解決法なのです。
ゆるすことには誰かの犠牲が伴います。しかし、誰かの犠牲なしに、解決しないのです。イエス・キリストは私たちのために犠牲になりました。
私たちはみな負債をゆるされたものです。そして、神様は私たちが直面している問題において、「あなたが犠牲になりませんか?」と問いかけておられます。すべての問題において、神様は愛による解決を備えておられます。そして、私たちがそれを実践できるよう、導いておられます。 |