『キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、よいわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。』(新約聖書 テトスへの手紙
2:14)
イエス様は私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかってくださり、私たちを義人としてくださいました。それはもう完了したことです。しかし、それで終わりではなく、さらに義人としてふさわしい者にきよめることをイエス様は目的としておられます。この章に書かれているのは、そのために私たちが模範とすべきよいわざについての教えです。
これらの教えを実行するのが楽しい人と、楽しくない人がいます。それはなぜでしょうか?イエス様は私の言葉は重荷にはならないと言われました。しかし、みことばが重荷になり、楽しくない人がいます。それはどこかがずれているからです。
結論はこうです。神の力によってみことばに従うのは楽しく、自分の力(肉)で従うのは楽しくないのです。表面的な行動は同じかもしれませんが、その目的はまったく違います。自分の力でやる人の目的は、自分が認められることです。見えるところ、みことばに熱心で、行いは立派かもしれませんが、パリサイ人と同じです。イエス様はパリサイ人を注意されました。それは、行いの動機が自己中心で、人を愛していなかったからです。
私たちが落ち込んだり、欝になるのは、自分が目的になっていて、自分に目がいっているからです。神に目を向ければ心に喜びが来ます。しかし、自分を見つめ、自分が満足することを求めると、他人がそのような行動をとらなければすぐに落ち込みます。また、完全な人などいませんから、どんな人でも不完全な自分を見つめれば落ち込みます。私たちは、自分で自分を見る必要はありません。神が見てくださっているからです。
では、どうやって自分の力によってではなく、神の力によってみことばに従って生きることができるのでしょうか。即効性のある方法は、断食です。断食をすると、必然的に肉の力が弱まり、神の力によって生かされていることを実感します。また、胃を休めることは体にとっても良いことです。(ただし、体質によって注意が必要な人もいます。)その他に3つのことがあります。それは、私たちクリスチャンにとって実はごく基本的なことです。それは以下の通りです。
1. 悔い改める
自分の罪に気づき、それを認めることができること。これがスタートです。それができないといつまでも自分をガードし、自分の力で生きることになります。
2. 自分の弱さに気づき、認める
自分の弱さを神の前に素直に認めたとき、そこに神の力が働くことを知るのです。つぶやいてしまう弱い人間でも良いのです。それを認めて、神により頼むことが大切です。あわれみを求めて祈るうちに、みことばを行うのが楽しくなります。
3. 神と交わる
私たちは2つの方法で神と交わることができます。ひとつは、聖書によって、神の言葉、神の意思を聴くことです。もうひとつは、祈ることによって自分の意思を神に伝えることです。イエス様は地上での生活を通し、私たちへ模範を示されましたが、イエス様はよく祈っておられました。それは、人は祈る必要があるからです。前に進むためには、神と交わること、上からの力が必要です。
みことばを聴き、自分の罪、弱さを認め、祈り求めること、こういった神様との交わりが私たちには必要です。自分で無理をしてではなく、心から喜んでみことばを行うことができるように、神様が私たちを導いて下さいます。 |