『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』(新約聖書 テモテへの第二の手紙
4:2)
私たちは、時が良いか悪いか、いつも判断しています。しかし、神様はそのような判断をせずにいつでも伝道するよう命じておられます。では、なぜ私たちは時が良いか悪いか判断してしまうのでしょうか。
私たちの中に、「失敗して恥をかきたくない」という強い思いがあります。だから、タイミングがよいと思えば行動するが、タイミングが悪いと思ったら、失敗して恥をかかないために行動を差し控えるということをします。
神様にとって、そういった私たちの判断はナンセンスなのです。神様はどういう時であってもやりなさいと言われます。そこに含まれるメッセージは、「失敗しても良い。後は私が何とかするから大丈夫だ。とにかく進みなさい。」というものです。これはキリスト教の教理の大きな柱の一つです。
私たちが失敗を恐れるのは、私たちの中に植え付けられた禁止令によります。私たちは失敗すると叱られて育ってきました。その中で、「失敗してはいけない。完全でなければならない。」という禁止令ができました。自己暗示にかかっているのです。この禁止令は特に日本では昔から一つの美学でもありました。武士道のように失敗して恥をかくよりは死を選ぶといった具合です。
しかし、聖書のメッセージは全く逆です。聖書には「義人はひとりもいない」とあります。私たちは完全ではありません。だから失敗します。しかし、恥をかくことはありません。神様が何とかしてくださるのです。
人生は神様の学校と言えます。神様が教師で、私たちは生徒です。日々、神様が私たちを教え導かれます。学校はどのような場所でしょうか。
1.失敗が許される場所
私たちは何度も失敗することによって学び、成長します。
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙
8:28)
御言葉にあるように、神様は全てのことを益とされます。ですから、失敗を恐れないで前に進みなさいというのが神様のメッセージです。失敗するかもしれないなどと言い訳をしないで、とにかく進むのです。そうでなければ私たちはずっと進みません。別の場所には言葉で失敗しない人はいないとも書いてあるように、私たちは必ず失敗してしまうのです。しかし、そのたびに神様が益に変えてくださるのですから、大いに失敗し、学び、成長すればよいのです。
私たちは失敗しても、咎められるのではなく、赦され、守られます。だからと言って罪を犯していいと思うなら、その人は赦されることが何なのか、分かっていません。赦されるということは、その罪の罰金を誰かが支払っているということです。それがどれだけの物だったかを知ったなら、その人はもう罪を犯したくないと思うようになります。また逆に、赦されたという恵みを受けとろうとせず、自分で自分を責め続けるのも間違いです。
2.先生がいる
『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』(新約聖書 ローマ人への手紙
8:26)
私たちは弱い者です。神様はそれをご存知で、助けてくださいます。また、どうすればよいか分からない時、尋ねるなら、先生である神様が教え導いてくださいます。
『「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』(新約聖書 マタイによる福音書 1:23)
インマヌエル=神は私たちとともにおられる、これがイエス・キリストの別名です。神様はいつでも私とともにおられます。ですから、私たちは安心していることができるのです。
私たちは失敗を恐れすぎていないでしょうか?イエス・キリストがいつも共におられ、失敗も全て益に変えてくださり、分からなければ教えてくださり、助けてくださるのです。主に信頼して、一歩前へ踏み出していきましょう。 |