まず冒頭でパウロは、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますようにとあいさつしています。私たちは、期待外の言葉に動揺したり、期待通りの言葉で平安を得ることがあります。しかし、それは一時的なものです。主から来るのはもっと確かなものです。
『兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙 第二 1:3)
パウロはテサロニケの人々の成長を見て感謝しています。では、信仰の成長、愛が増し加わっていることは、何をもって分かるのでしょうか。まず、信仰については、問題にぶつかった時、希望を捨てずあきらめないかどうかによって分かります。私たちは問題にぶつかった時、あきらめてしまったこともあるかもしれませんが、以前より神に期待して祈るようになっているのではないでしょうか。それは、自分の努力でそのように信仰を保っているというより、主が信仰を育ててくださっているのです。
愛についてはどうでしょうか。一般的に人が愛されていると感じるのは、気持ちを受容された時です。しかし、聖書の愛は、単なる同情ではなくもっと本質的なものです。キリストの体である私たちの間に愛が増し加わっているとは、まず、教会の中でさばき合うことがなくなることです。これは、体が機能するための最低条件です。そういった土台があった上で、困っている時は互いに助け合います。「互いにさばかない」これができていない時、体が機能していない時は、祈りましょう。
『…あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙 第二 1:5)
苦しみにぶつかるのは、私たちの内に愛を増し加えるための神の訓練です。その苦しみの中には私たちが神に従うがゆえに受ける迫害もあるでしょう。それは避けられないことです。しかし、迫害を受けた時に自分で復讐してはいけません。神がすべて正しいことをしてくださるのです。(6〜9節)
神がすべてを正しくさばかれる時、私たちの主イエス・キリストが私たちによって栄光を受けられると書いてあります。私たちはいつでも自分を誇ろうとするのではなく、主が栄光を受けられることを最大の喜びとして生きていきましょう。
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