『こういうわけで、もしあなたがたが、キリストともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。』(新約聖書
コロサイ人への手紙 3:1,2)
地上でみなが求める価値あるものとは、お金、名誉、権威といったものです。しかしそれを手にしても、心が平安で豊かになるわけではありません。私たちの心を豊かにするものは、神から来るものです。神がくださる賜物は、愛、喜び、寛容・・・(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:22 参照)といった心のものです。それらはすべて私たちのうちに住んでおられる聖霊様が成らせてくださる実です。そういうわけで、神から来るものを求めるよう書いてあるのです。
『あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストともに、神のうちに隠されてあるからです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:3)
私たちがすでに死んでいるとはどういうことでしょうか。
ここには3つの意味があります。
1 もはや罪の借金がない
借金は、その人が死ぬと帳消しになります。私たちが神の前に犯した罪も、イエス・キリストがその罪を背負って死に、私たちがそのことを信じたので、神様の前には私たちもイエス様と同じように死んだものとなり、罪のない者となったということです。
2 キリストがあなたの中に生きている
私たちはキリストとともに死に、復活されたキリストともにまた新しいいのちをいただきました。ですから、私たち自身が生きているのではなく、キリストが私たちのうちに生きておられるのです。
3 律法の世界から恵みの世界に移された
この世で人を評価する基準は「行い」です。それを律法による生き方と言います。それに対して、神は人を行いによっては評価せず、一人一人に最高の価値を一方的に与えています。一人一人が違うのは、それぞれに神が一方的に賜物を与えられたからであり、その賜物を活かして生きるようにされているのです。ですから、私たちはもはや自分の価値で悩む必要はなく、自分の賜物を活かして生きてゆけばよいのです。
『ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:5,6)
私たちはキリストとともに死んだのですが、ちょうどゴキブリが退治しても、もがき苦しみながら生きているように、私たちの内でも古い自分がもがきながら、顔をのぞかせるのです。ですから、私たちのうちにあるこの悪い思いと戦う必要があります。この悪い思いに対する神の怒りは、今の時代では外側の災いではなく、私たちの内側に起こります。それは、心に平安がなくなることです。
『・・・あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。・・・それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:9〜12)
律法による古い生き方を捨て、キリストによる恵みの生き方になったことが、ここでも書かれています。そして、12節の最後に「身につけなさい」とありますが、身につけるものは、すべて上から来るもの、神が与えてくださるものであることを忘れてはなりません。
『互いに忍び合い、誰かが他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛をつけなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:13,14)
人が考える一致とは、思想や考え方を一つにすることです。しかし、これまでの歴史を見ても、思想統制の結果生まれたのは、争いや不信ばかりでした。また、人の愛によって結びつこうとしても、問題が起きます。人は愛することに代償を求めるからです。あなたのためにこんなにやってあげたのだから、あなたもこうしてほしい、と互いに期待し、それを裏切り、裏切られて、人間関係に問題は絶えません。
神の愛は人と人を結ぶ完全な帯です。上の聖句にあるように、神の愛で結ばれている関係ならば、意見、考え方が違っていても関係が壊れることはありません。神の愛を抜きにして、考え方や趣味で結ばれようとしてはいけません。
私たちの身につける判断基準、性質、人との関係、すべてにおいて、自分由来のものではなく、神から来るものを求めていきましょう。神から来たものは、決して壊れることがありません。
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