新約聖書のほとんどはパウロが書いた手紙ですが、パウロは一貫して同じことを言っていることに気づいたでしょうか。それは、神の恵みに生きるということです。私たちが苦しむ原因は「行ない」による生き方であるということ、そしてその解決は、神の恵みを受け入れることに他ならないということ。それを角度を変えながら、パウロを通して神ご自身が私たちに理解させようとしているのです。
この箇所でも私たちを苦しめる「行ない」について書かれています。
『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらし者とし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:15)
私たちはみな、キリストを知る前は、サタン、悪霊の支配の中にありました。サタンが私たちを支配する方法は、私たちを行いによる生き方に縛ることです。行いによって人の価値を決め、その価値がある人ほど愛される資格があるという考えによって、私たちが縛られていることが、サタンに支配されることです。そのような教えが世界中にありますが、キリスト教の教えはそれに対して真っ向から反対するものです。行いはその人の価値とは全く関係なく、私たちはみな神に造られたゆえに神に愛される者です。
『これらは、次に来る者の影であって、本体はキリストにあるのです。あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝を使用とする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の主によっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。・・・』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:17〜19)
クリスチャンが自分の体験を強調することもまた、行いによる生き方を勧めるものとなり、教会にとって危険なことです。例えば、神に示されてこれをしたら病がいやされた。だから、あなたもこうしなさい、と勧めることで、その行いがいつしか教えとなり、間違った方向へとずれていくのです。本体であるキリストよりも、影を強調し、教えとしてしまう危険があります。
神の恵みは報酬ではありません。行いに対して得られるものではありません。私たちがイエス・キリストを信じるだけで、ただで与えられます。「良いことをしたら与えられる、悪いことをしたら与えられない」これは「報酬」という人間の考えであって、神が私たちに用意しているのは「恵み」なのです。
また、自分の体験を強調する人は教会に結びつこうとしません。すべてを自分の経験によって捉えようとします。しかし、個人的体験はあくまでも私たちが御言葉を理解するための助けであって、教えとしてはいけません。
自己卑下することも、誇ることも、こうしなければならないという基準があるからできることです。それをパウロは「幼稚な教え」と言い、捨て去りなさいと勧めています。それがすなわち、悪霊の支配(行いによる生き方)からの解放だからです。
『そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、なんのききめもないのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:23)
こうでなければならないという人間の教えに則ってやることは、一見素晴らしく見えます。しかし、内側を変えることはできません。
浄土真宗の開祖である親鸞は、中国に渡った時に、景教(キリスト教)と出会います。彼は、いくら苦行をしても自分の内側が変わらないことに気づきます。当時の常識では、僧侶は妻を持つことなど考えられませんでしたが、親鸞は、自分の中に女性を好きになる気持ちが変わらないのを見て、妻を持ちました。彼は、景教の教えに影響を受け、自分の無力さを知り、人は自分の行いで自分を救うことなどできない、天地を造った存在に救ってもらうしかないという教え、「他力本願」という教えを日本で広めました。
神様は私たちを一人一人違うものとして造られました。ですから、こうでなければならないという基準にあてはめることなどできません。本来比べようがないものを、私たちは勝手に比べては一喜一憂しています。そこには解決もありません。しかし、神様が一人一人を違うピースとして造られた意味を知ろうとし、キリストの体における自分の役割、他の人の役割を考えるなら、少しずつ、神様の描いたパズルの絵ができてくるのではないでしょうか。
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