『こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにして下さい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:1,2)
神様が私たちを励ますのには目的があります。この御言葉にあるように、私たちがキリストの体として一致を保ち、愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにするためです。もし体の一部であるだれかが苦しんでいれば、その人のために祈り、回復するようにします。また、体はそれぞれの器官が一つの方向に向けて行動していきます。これは、感情を共有することであるとも言えます。
文明が発達するにつれて、私たちは互いに感情を共有する機会を失い、孤立した状態になりました。そのため、たましいはいつも孤独で、幸せを求めているのです。そこで、幸福感、ポジティブな感情を選択できるように、私たちは行いの規定を設け、それをクリア出来ればポジティブな感情を選択できると考えました。しかし、その行いの規定によって、わたしたちはむしろネガティブな感情を選択するようになってしまったのです。
『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:3,4)
私たちがそれぞれ異なるのは、比較するためではなく、互いを必要とするためです。私たちは一人で生きているのではなく、互いに思いやることが必要です。イエス様がまず私たちに思いやりを示して下さったことを忘れてはなりません。
『・・・自分の救いを達成して下さい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:1,2)
私たちは、イエス・キリストを信じたので救われています。しかし、救われたら一瞬にして姿が変わるわけではなく、神様が望んでいる姿に徐々に進んでいくのです。救いの達成、つまり神様が望んでいる姿とは、神様の恵みの中で生きられるようになることです。
恵みとは、自分がキリストの体の一部であることを理解することです。それをじゃまするのが行いの規定です。行いの規定は、自分の価値を見出すためのものです。しかし、キリストの体であるということは、キリストと同じ価値をすでに持っているということです。また、キリストと一つであるということは、主がいつも私たちと感情を共有して下さるということです。それなのに、あえて自分の価値を見出そうとすることは、私たちがキリストに結びつくことを妨げます。
では、どうしたら恵みを理解できるのでしょうか。
『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:14)
神様は私たちに願いを与えられます。その願いに従って進む時、それらは多くの場合、たやすいことではなく、困難にぶつかるでしょう。困難にぶつかった時、その出来事のうらには恵みが隠されています。出来事に目を留めてしまうと、恵みが見えません。しかし、隠されている恵みを見つけるなら、つらい出来事が感謝に変わります。恵みをつかむと、その人は光り輝くのです。(15,16節)
注意しなくてはならないのは、人は理性や努力でも光り輝くことができるということです。クリスチャンが陥りがちなのは、クリスチャンは光り輝いてなければならないと、自分に行いの規定を設けてそれをクリアすることで立派に見せようとしてしまうことです。しかし、自分の努力によるものと、神様によるものとでは、実体が全く違います。私たちを輝かせるのは神様です。私たちがなすべき事は、いつでもキリストにつながることです。
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