『・・・もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。・・・互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:1,2)
「互いに重荷を負い合い」とありますが、この重荷とは、何を指すのでしょうか。それは、あやまちに陥ってしまう弱さのことです。つまり、重荷を負い合うというのは、相手の弱さを理解し、共有し、責めないことです。
互いに弱さを理解し合うことを通して、私達は「あなたの隣人を愛しなさい」という言葉に集約されるキリストの律法を行うことになるのです。ただ、相手の弱さを理解するということは、自分がどんなに赦されたかを知って初めてできることです。
先週まで見てきたとおり、私達には愛されたいという欲求があります。努力して相手が期待することをして、認められようとします。しかし神が私達を愛するのは私達の行いは関係ありません。行いの奴隷から解放される道を神様は与えてくださいました。解放される道のスタート地点は、自分と向き合うことです。
『おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで他の人に対して誇れることではないでしょう。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:4)
自分を知ることはつらいことです。なぜ人を裁いてしまうのか、なぜこういう事を思ってしまうのか・・・と、自分の姿に嫌悪してしまうでしょう。しかし、そのつらさは恵みの入り口なのです。
イエス様は私達がそういう人間であることを知っておられます。重病人の私達を医者であるイエス様は喜んで直してくださいます。さらに、自分を知ることで私達の内側が変化します。それは大きくわけて次のような変化です。
1 人に優しくなる
自分には人を裁く資格などないということを知り、相手の弱さを見ても同じ弱さが自分にもあることを自覚することができます。
2 誇らなくなる
自分の能力、持ち物によって自分の評価を得ることをしなくなります。
3 神の恵みが見えるようになる
神の恵みは、自分の弱さに気づき、自分のありのままの姿を見て、初めて見えてくるものです。
『自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:8)
自分が認めてもらうために肉の種を蒔くなら、争い、ねたみといった5章19〜21節に書かれている滅びの実を刈り取り、その実によって苦しみます。一方、神様のために御霊の種を蒔くなら、愛、喜び、平安といった5章22,23節にある素晴らしい実を刈り取ります。私達はどちらを選びますか。世の中の人に認められて、一時的平安を手にしたいでしょうか?それとも人には認められなくても、永遠に続く平安を手にしたいでしょうか?
ここで、クリスチャンが陥りやすい過ちについて触れる必要があるでしょう。それは、神のためと称して実は自分のために種を蒔いている場合があるということです。そして人からほめられるために実がなっているかのように見せかけるのです。
実がなっていると見せるために行いを良くする人たちは、キリストの律法を行っていません。キリストの律法とは、「あなたの隣人をあなた自身に愛せよ」という言葉に集約されます。
『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:14)
私が十字架につけられたとはどういう意味でしょうか。それは、肉によって評価を得る生き方と決別したということです。そうして、新しい恵みによる生き方に移るのです。
『割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:15)
今何ができるといった行いは重要ではありません。重要なのは、生き方を変えることです。そのために、まず自分と向き合うことから始めていきましょう。
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