『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:1)
聖書によると、私たちはもともと自由ではありません。それは律法の下にいる奴隷だからです。
人間はみな「愛されたい」という欲求を持っています。そして、愛されるためにみなから認められることを一生懸命行います。常に自分の価値を何ができるか(行い)によって判断しているのです。ですから、自分のできる行いが変われば価値も変わるため、常に不安があります。これが行いの奴隷という状態です。
しかし、神様は行いに依存しない価値を与えられました。神が私たちを愛されるのは、何かよいことをしたからではありません。そもそも私たちが存在するのは、神が私たちを愛するために造ったからでした。だから私たちには「愛されたい」という願望があるのです。それは神の愛を受け入れることによって満たされます。神の愛を受け入れる、つまり、神を信じるとはどういうことでしょうか。
神と私たちとの関係は、ちょうど医者と病人の関係のようです。私たちは病気になると医者を頼ります。それには何の努力も要りません。治してほしい、助けてほしいという気持ちで当然のように医者を頼るのです。また、医者は私たちに何ができるかなどといったことには何の興味もなく、分け隔てなく病気を治すのです。
また、母親と赤ちゃんの関係にも置き換えられます。赤ちゃんは母親を頼ります。それには何の努力も要しません。赤ちゃんは自分には何もできないことを知っています。助けてもらわないと生きていけないのです。だから、母親を頼ります。
神を信じることは、自分の状態−助けが必要なほどに弱いということを知って初めてできることです。試練に遭うと、人は自分の本当の姿に出会います。それは神様が私たちに自分を見つめるよう促しておられるのです。人には見せられない、隠したい自分の姿を認め、ただ神に助けを求め、神の愛を受け入れるとき、私たちは自由になります。
『兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:13)
私たちは自由を与えられるために救われました。そして神はもう変わらない価値を与えてくださっています。それなのに、自分の力で価値を手に入れようとするとき、不安になります。
『私たちは御霊の実と肉の実、どちらかをならします。心に平安がなく、ねたみや争いといった思い(19〜21節)があるのは、肉の実がなっているからです。
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。(18節)
・・・御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』(新約聖書
ガラテヤ人への手紙 5:22,23)
御霊の実をならすために必要なのは、何でしょうか。いくら自分の力でならそうとがんばっても、出てくるのは肉の実ばかりでした。肉の実の問題は、自分の力で評価を得ようとしていたからです。そういったことはもうやめましょう。自分の中に悪い思いが来ても、それを自分の力で振り払おうとするのではなく、病人が医者を頼るように、赤ちゃんが母親を頼るように、ただ神にあわれみを求めればよいのです。自分が弱いと思うとき、主が働かれます。そのとき、私たちは御霊によって導かれ、自由なのです。
『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」』(新約聖書 第2コリント人への手紙 12:9)
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