人間には、自分の価値を見出したいという根本的欲求があります。そして自分の価値を、自分に何ができるか(行い)によって測っています。そのため、こうありたいという理想像を自分へのハードルとして、それに向けてがんばります。そこにはいつも、到達していない自分への不安があります。常により高いハードルを設けるため、不安は消えることがありません。
アルコール依存症、買い物依存症、さまざまな依存症がありますが、それらはこういった現実の不安からの逃避によるものです。仕事依存の場合は、立派なように見えますが、根は他の依存症と同じように自分の姿への不安です。
これらの状態を「律法に生きる」あるいは「行いに生きる」状態といいます。 腹を立てるのも律法に生きているからです。相手の価値に条件を付け、相手がそれを満たせないと怒るのです。すべて行いが判断基準になっています。
聖書に書かれている律法は、私達に越えられないハードルを示しました。それは、私達が自分のありのままの姿を認識するためでした。みことばを完全に行うことのできない、惨めな存在であることを。行いによっては、自分の価値を見出すことができず、救いの確信も得ることができない、自分の力で安心を得ることができず、誰かに助けてもらうしかない、そんな自分に気づきます。
神様は、そんな私達のために、もう一つの道を示してくださいました。それは、「イエス・キリストを信じる」という道です。それによって、私達はこれ以上ない最高の価値を与えられました。私達は行いによっては判断されず、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の子として認められたのです。
この最高の価値が与えられていることを理解すると、人生の目的が変わります。これまでは価値を見出すことが人生の目的でした。しかし、これからは、神に与えられている賜物を発見し、感謝してそれを用い、神に栄光を返すことが人生の目的になります。
ガラテヤの人たちはこの素晴らしい福音を味わっていたのに、行いに価値を置く世界に逆戻りしてしまいました。そんな彼らに、パウロは信仰による世界に戻るようにと促しているのです。
私達にも逆戻りの危険があります。人への嫉妬があったり、腹を立てたり、人を攻撃するのは、行いに生きている証拠です。人の価値を行いで測っているのなら、その人は自分に対しても行いで測っています。しかし、私達は既に最高の価値を与えられているのですから、自分の価値について心配する必要はもうないのです。
このように、私達には常に二つの選択肢があります。自分の力によって生きるか、信仰によって生きるか。自分の力で生きる時、救われる道はただ律法を完全に行うことです。信仰によって生きる時、私達はただ神の恵みによって救われます。あなたはどちらの道を選びますか?
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