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2003年9月7日 礼拝メッセージ
ガラテヤ人への手紙3章
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙3章より)

人はなぜ悩み苦しむのでしょうか。人が悩み苦しむ究極の原因は、「不完全である」ためです。

人は「こういう人間でありたい」という理想像と実際の姿の違いに悩むのです。なぜ人に優しくできないのだろう、なぜ忍耐できないのだろう・・・。その背後には、「人に優しくすべきだ」「忍耐すべきだ」という律法が潜んでいます。

殊にクリスチャンは、聖書の言葉に従いたいと願っています。ですから、OOの御言葉に従えない自分は、何という惨めなクリスチャンか、と自分を責めてしまうのです。また、人に対して腹を立てるときも同様です。自分が描く相手の姿と実際の相手の姿が違うために腹を立ててしまうのです。「あなたは○○であるべきだ」と相手の姿を律法でみています。

このようにして、私達はみな不完全なため、完全になりたいという欲望を持ち、しかしそれを満たすことがでないので、悩むのです。

聖書を見てみましょう。


『あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰を持って聞いたからですか。』(新約聖書ガラテヤ人への手紙 3:2)


私達が救われたのは、良い行いをしたからではなく、イエス・キリストを信じたからです。クリスチャンとしての歩みは、私達の努力ではなく、神の恵みによってスタートしました。これからの歩みにおいても、それは変わりません。それなのに、当時のユダヤ人は、律法や自分たちの教えを守ることによって、救われ、救いが完成すると考えていました。これは現在の教会にも存在することです。

パウロはここで改めて、「信仰によって生きること」と「律法によって生きること」の違いを次のように明確に示しています。 律法によって生きる者はのろいのもとにあります。律法の書に書いてあるすべてのことを実行しなければ、神の前に義と認められないからです。しかし人間は誰一人、律法を完全に行うことができません。律法によって神の前に義と認められることは不可能です。つまり、すべての人が死罪に値すると宣告されているのです。

「のろい」とはこの様にも言うことができます。不完全ゆえの悩み、苦しみだと。社会は行いによる評価で成り立っているため、みなが苦しむようになっているのです。これは「行いによって悩む」というのろいの世界です。

しかし、神によって義と認められた人がいます。ここに信仰による生き方があります。


『アブラハムは神を信じ、それが彼の義と見なされました。・・・そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。(新約聖書ガラテヤ人への手紙 3:6,9)


神はアブラハムの行いを評価したのではありません。彼がただ神を信じたから、彼を義と認めたのです。そして、彼のように神を信じる者すべてが義と認められる道を備えてくださいました。私達はどちらの生き方を選ぶでしょうか。

神はいつでも私達の内面を問題にされます。どんなに立派なことをしていても、内側で神の約束を疑い、否定的な思いになっているのなら、そこに信仰はありません。否定的な思いと葛藤し、戦い、神の約束に立つ、それが信仰による生き方です。信仰によって生きていくうちに、神が内側に働かれ、行いは変えられていくのです。神を悲しませるのは、立派な行いができないことではなく、不信仰です。

神がアブラハムに語られたことは、契約であり、決して無効になることはありません。しかし、律法は契約ではありません。律法も神によって私達に与えられたものですが、その目的は、私達が自分の罪に気づくためでした。神の前には人を憎むことは殺人に等しく、死罪にあたります。私達はみな牢屋にいる状態なのです。神はそんな私達をあわれみ、イエス・キリストによる救いの道を用意してくださいました。律法は、私達が信仰による救いの必要を理解するために、必要なものでした。

神の国を相続するという約束は、イエス・キリストを信じる者に与えられています。私達は、行いができないことを悩むのではなく、また、行いを立派にしようと努力するのではなく、ひたすらに神様の約束を信じる努力をしていきましょう。



神木イエス・キリスト教会


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