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2003年8月31日 礼拝メッセージ
信仰によって義と認められる
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙2章より)

2章にはキリスト教の教理の基本となることが書かれています。

1,2節にパウロが啓示によってエルサレムへ行ったと書かれています。啓示とは神様が私達に何かを示されることです。とかく啓示というと超自然的な出来事によって受けるように想像されがちですが、神様は色々な方法で私達に道を示されます。聖書のみことばを通して導かれることもあれば、人を通して導かれることもあります。ですから、方法は重要ではなく、いつも私達を導こうとしておられる神様の啓示に心を開き、導かれることが重要です。

3,4節には、偽兄弟たちによって割礼を強いられる恐れがあったとあります。まず、割礼とは旧約時代からのイスラエル人の儀式であり、神様の教えとして堅く守られていました。割礼に限らず、旧約聖書の教えを守ることで救われる、すなわち信仰によってではなく行いによって救われるという教えをふきこむ者がいました。イエス様が伝えた福音は、律法を守ることによって人が救われるのではなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって人は救われるというものです。実際、神様は割礼を受けているイスラエル人だけを救うのではなく、割礼を受けていない異邦人も救ってくださったのです。

5〜8節には、パウロが間違った教えに対して一歩も譲歩しなかったことが書かれています。信仰を持って生きていくと、当然色々な問題にぶつかります。私達は相手の傷つけたくないばかりに信仰を妥協してしまうことはないでしょうか。仏壇に対する姿勢もその一つです。私達は手を合わせて礼拝することはしません。私達が礼拝するのは神様一人だからです。妥協して礼拝してしまうと、その時はいいかも知れませんが、福音は伝わりません。その時は反発があっても妥協せず、祖先を敬いながら自分の信仰を忍耐をもって説明していくなら、やがて周りの人に福音が伝わっていくのです。

9〜14節には、パウロがペテロに対して面と向かって抗議したということが書かれています。それはペテロが割礼派の人々の顔色をうかがって、異邦人から離れていったからです。人々を恐れて本心を偽った行動をするペテロに対して、パウロは臆せずにその誤りを指摘しました。私達も互いに言うべき事を言えないことがないでしょうか。しかしそのことでお互いに疑心暗鬼になってしまい、関係がおかしくなってしまいます。

15〜16節には「信仰による救い」が書かれています。「信仰による救い」の意味は以下のことです。

1. 行いによっては誰一人「義」とは認められない。

2. イエス・キリストを信じる信仰による「義」

17節の意味は、こうです。「信仰によって救われる=律法が不要」ということではない。律法は必要なのです。その理由は19節にあります。律法を知ることによって私達は自分が罪人であることを知るからです。私達は聖書の教えを完全に守ることができるでしょうか。まじめに取り組もうとすれば、どれ一つできないことに気づくでしょう。「罪の報酬は死です。」とあるとおり、聖書の基準によると、私達は救われる価値のない者、死を宣告された者なのです。行いによって救われる資格を得ることができないことを知ったのです。

では、どうやって救われるのでしょうか。イエス・キリストは私達の罪を背負って十字架にかかり、罰を受けられました。私達の罪の報酬をイエス様が受けられたのです。それは、イエス様を信じる者が救われるためです。聖書の教えに照らされて、自分が罪人であることを知ることによって、イエス・キリストの救いを受けられるのです。


『私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によるのです。』(新約聖書ガラテヤ人への手紙 2:20)


私達は自分の力では救われることがなく、ただ神様のあわれみによってしか救われることがないことを知りました。そんな私達のためにイエス様は十字架にかかり、私達は罪を赦され、救われました。この恵みを私達は忘れることなく、感謝を捧げていきましょう。



神木イエス・キリスト教会


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