この章では、最初に神の熱心という言葉が出てきます。神は私達に対して熱心であられ、大変な関心を持っておられるということです。妻が夫に生涯誠実を尽くすように、私達が生涯イエス・キリストを信じ、仕えていくことを神は願っておられます。ですから、私達の信仰が間違った方向にそれてしまうことを、神は最も懸念されます。
3,4節には、私達の信仰を惑わそうとする罠が3つ書かれています。
- 別のイエス・キリスト
- イエス・キリストを神ではなく「優れた人」として伝えるものです。キリスト教を語りながら内実は全く異なるものであり、異端と呼ばれます。
- 異なった霊
- これもまた見かけはキリスト教のように見せながら、聖霊によるものではなく、悪霊によるものです。ことさら神秘的な現象をアピールしたりするものなどがあります。
- 異なった福音
- 聖書に書かれていないことをさまざまな憶測によって、教えとして広めようとする働きは、昔から出ては消えていきました。
これらのものに対して、私達は注意を払う必要があります。
さて、5節以降からは、パウロのことを認めない教会の指導者たちの存在が示されています。彼らは自分たちの血筋、家柄、働き、苦労等を誇って、自らを高めていました。しかし、それらの者は偽牧師であり、彼らの最後はその仕業にふさわしいものだと書かれています。
人は自分の持っているもの、してきたことを誇りたいのです。そして、その誇りで人を裁こうとします。私達も苦労してきた人のことをすごいと思ったり、能力のある人をすばらしいと思ってしまいます。しかし、人の誇りは神の目には愚かなことです。
『もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。』(新約聖書 第二コリント人への手紙 11:30,31)
私達の苦労は人に話すものではなく、神がご存じです。また、私達にどんな能力があろうと、それは私達が誇ることではありません。私達に能力があるとすれば、私達を創られた神がすばらしいゆえです。創られた者が誇るのは滑稽なことです。私達は創られた存在であり、弱い者なのです。ほめたたえられるのは、神お一人です。
32,33節に書かれているエピソードには、誇る者に対して、神が用いた者の存在が記されています。パウロが捕らえられそうになった時、建物からパウロをつりおろして逃れさせた人がいました。その人の生涯で、神にとって重要な働きをしたのは、その時ただ一度だったかも知れません。エルサレムに入城されるイエス様を乗せたロバも、神の役に立ったのはその時だけでした。しかし、彼らは、誇る者たちとは比べものにならないほど重要な働きを担っていたのです。彼らは自分たちがそれほどすばらしいことをしているとは、知らなかったでしょう。
神は私達を熱心に愛し、私達を用いる予定を持っておられます。私達には神の描く全体像が見えなくて、自分がどのように用いられているのかわからないこともありますが、神はそれぞれに与えた能力を用いてすばらしい働きをしておられます。ですから、自分と人を比べることも誇ることもやめて、ただ神に向かい、自分に与えられたものを用いていきましょう。
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