『あなたがたは、・・・私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。』(新約聖書 第二コリント人への手紙 8:7)
パウロは8章、そして次の9章でも、コリントの人たちに対し、他の奉仕と同様に恵みのわざに熱心になってほしいと語っています。「恵みのわざ」とは献金を指しています。聖書の他の箇所にも献金が恵みのわざであることが書かれています。ではなぜ恵みのわざである献金に熱心になるように勧めているのでしょうか。
1. 神に自分を委ねる実践的訓練
世の中ではお金を出すことには見える形の代償があるものです。しかし、献金にはささげたことに対する見える代償はありません。神がお金を必要としているのではありません。私たちが神様を信じているという具体的な行動を通して、自分を神に委ねる訓練になるのです。
2. お金に支配されない訓練
富をコントロールすることは、人間にとって一番難しいことです。富を手にしてコントロールできず、身を滅ぼした人が大勢います。富が悪いわけではありませんが、それに支配されてしまうことが危険なのです。献金は、そういった誘惑から身を守るための訓練にもなります。
3. 愛の実践的訓練
私たちは愛する人にプレゼントを贈りたいと思うものです。神様を本当に愛するなら、ささげることは苦になりません。 このように、ささげることは私たちの信仰の成長のために必要な訓練なのです。また、ささげることは信仰の調子を表わすバロメーターにもなります。
ところで献金というと、よくある誤解があります。それは、金額によって評価されてしまうのではないかということです。しかし、少額しかささげられないから自分はダメなクリスチャンだとか、またその逆も間違いです。12節に「持っている程度に応じて」とあります。持っているなかからどれだけささげたかを神様はご覧になります。もし借金があってお金がないのならささげることはできません。だからと言って、信仰がないということではないのです。
あるときイエス様は人々が献金する様子を見ていました。あるお金持ちはたくさんの献金をしました。しかしイエス様はその人を評価しませんでした。それは持っているもののほんの一部をささげたにすぎなかったからです。ある女性はその当時の最小単位の硬貨を2つ献金しました。イエス様はその女性が最も多くささげたと評価しました。それは持っているうちの全部をささげたからです。
ですからすべての人は持っている程度に応じてどれだけささげたかを評価されるので、神の前に平等なのです。多くの金額をささげた人を神が評価するのではありません。また、ささげれば罪が赦されるとか、ご利益があることもありません。また、この訓練は強制ではなく自発的なもので、自分の持っているものの中から自分で考えてささげればよいものであり、またしないこともできます。
当時のクリスチャンは集団で助け合う生活していました。持たない人が困らないよう、持っている人がささげた分で補い合っていました。今は生活の為だけではなく、余裕が出たぶんで、会堂建築、ノアの働き等に用いられていますが、献金がすべて、キリストの体を建て上げていくためであることは、今も昔も同じです。また、献金は公明正大に取り扱われるべきものです。
私たちの教会でもすべての収支をチェックして合わせた上で、毎年決算の報告をしており、主の前に責められるところがないようにしています。 私たちは、このように献金に対する正しい認識を持って、神を愛する心から、ささげるわざに自ら熱心になっていきたいと思います。
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